芥川龍之介「羅生門」を読む6~この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしてゐるからは、どうせ唯の者ではない

    それから、何分(なんぷん)かの後である。羅生門の樓の上へ出る、幅の廣い梯子の中段に、一人の男が、猫のやうに身をちゞめて、息を殺しながら、上の容子(ようす)を窺つてゐた。樓の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしてゐる。短い鬚の中に、赤く膿を持つた面皰(にきび)のある頬である。下人は、始めから、この上にゐる者は、死人ばかりだと高を括つてゐた。それが、梯子を二三段上つて見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火を其處此處(そこゝこ)と動かしてゐるらしい。これは、その濁つた、黄いろい光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、ゆれながら映つたので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしてゐるからは、どうせ唯の者ではない。
 下人は、守宮(やもり)のやうに足音をぬすんで、やつと急な梯子を、一番上の段まで這ふやうにして上りつめた。さうして體(からだ)を出來る丈、平にしながら、頸(くび)を出來る丈、前へ出して、恐る恐る、樓の内を覗(のぞ)いて見た。
 見ると、樓の内には、噂(うはさ)に聞いた通り、幾つかの屍骸(しがい)が、無造作に棄てゝあるが、火の光の及ぶ範圍(はんい)が、思つたより狹いので、數(かず)は幾つともわからない。唯、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の屍骸と、着物を着た屍骸とがあると云ふ事である。勿論、中には女も男もまじつてゐるらしい。さうして、その屍骸は皆、それが、甞、生きてゐた人間だと云ふ事實(じゞつ)さへ疑はれる程、土を捏ねて造つた人形のやうに、口を開いたり手を延ばしたりしてごろごろ床の上にころがつてゐた。しかも、肩とか胸とかの高くなつてゐる部分に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなつてゐる部分の影を一層暗くしながら、永久に唖(おし)の如く默(だま)つていた。

(青空文庫より)

「藁草履をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた」下人は、「それから、何分かの後」、「羅生門の樓の上へ出る、幅の廣い梯子の中段に、」「猫のやうに身をちゞめて、息を殺しながら、上の容子(ようす)を窺つてゐた」。

(「何分」と、時間を分で区切り、「分」という現代の時間の単位を殊更に用いる「作者」の心性)

このあたりから、比喩表現が頻出する。人物の行動を別の生き物に例えることにより、その場面のイメージをより高めようとする。読者の想像を喚起するのだ。ここは、いかにも猫が何かを警戒している様子。自分の気配・存在を消す下人。
それはなぜかというと、誰もいないと思っていた場所に、誰かがいたからだ。そこは、人は近づかぬ場所のはずだった。「身をちぢめ」は、できるだけ体を小さくして相手に見つからないようにするためと、何かあればすぐに相手に飛びかかるためだ。

「楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしてゐる。短い鬚の中に、赤く膿を持つた面皰(にきび)のある頬である。」
まるで映像を見ているかのようなクリアなイメージが、目の前に広がる。

「この上にゐる者は、死人ばかりだと高を括つてゐた」下人だったが、その意に反して、「梯子を二三段上つて見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火を其處此處(そこゝこ)と動かしてゐるらしい」ことに「すぐに」気づく。「濁つた、黄いろい光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、ゆれながら映つ」ている。「この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしてゐるからは、どうせ唯の者ではない。」
人の忌避する場所への侵入者。しかも火を灯している。放火か?  それとも何か良からぬ・おぞましい目的のためか?

普通であれば、一刻も早く立ち去るべき状況だ。それなのに、下人はあえてその不審・不気味に近づこうとする。好奇心と言えばそれまでだが、危機管理能力に欠けると言われてもしょうがないだろう。若者ゆえか。

「下人は、守宮(やもり)のやうに足音をぬすんで、やつと急な梯子を、一番上の段まで這ふやうにして上りつめた。さうして體(からだ)を出來る丈、平にしながら、頸(くび)を出來る丈、前へ出して、恐る恐る、樓の内を覗(のぞ)いて見た。」
あくまでも相手に自分の存在を悟られぬように行動する下人。それとともに、守宮が獲物を狙ってもいるようだ。(守宮はコオロギも食べるようなので、柱から姿を消したコオロギは、これに食べられたのかもしれない。生き物の世界も人の世も、弱肉強食)

ところで、この場面の下人を「作者」は、「一人の男」と呼ぶ。下人を客観視、対象化することにより、場面の転換に寄与する効果があるなどの説が示されているが、何か腑に落ちない。「作者」の意図の説明として、それでは不自由に思われる。
幸い、この物語には、「作者」が顔を出してくれている。だからここでも、登場願おう。
結論を言うと、これには、「作者」の殊更の技巧が感じられる。「作者」としてこのような修辞・テクニックを使ってみたのだが、読者の皆さんどうだろうか?  という鬱陶しさ・いやらしさを感じるのだ。
思えばこの「作者」は、古い時代の物語を題材にし、その頃の物事を古い語句を用いて表現しながらも、「 Sentimentalisme 」などの横文字を用いる。また、できるだけ下人のそばにいて彼とともに生きる意志が感じられる文章表現を多用する、物語制作のチャレンジャーだ。
「平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申(さる)の刻下りからふり出した雨」では、「平安朝」と「申(さる)の刻下り」の間に、「 Sentimentalisme 」という横文字を、しかもその綴りのまま載せる(しかも縦書きの文だ)という離れ業をやってのける。
だからここも、「下人が」ではつまらない。「一人の男」と一捻りした表現により、目新しい・斬新な文章表現を持ち込もうとしたと考えられる。
明示されてはいないのだが、「作者」の姿がその向こう側に明らかな、「一人の男」という表現だ。つまり、この表現は、「作者」の自己主張だ。

ここまで物語を読んで来た読者は、必ずこの表現に引っ掛かりを覚える。突然登場した「一人の男」とは誰なのかと、ここで一度立ち止まることを強制される。これは、物語の進行と理解を邪魔する表現なのだ。普通であれば、それは避けたい。だから、殊更にそれをすることについては、何かの意図が必ずある。それは、「作者」の自己主張・自己顕示欲の現れであると考える。

「下人は、始めから、この上にゐる者は、死人ばかりだと高を括つてゐた。それが、梯子を二三段上つて見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火を其處此處(そこゝこ)と動かしてゐるらしい」。「天井裏」の「隅々に蜘蛛の巣」がかかっていることから、誰も近づかぬ場所であることが分かる。従って、「この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしてゐるからは、どうせ唯の者ではない」ということになる。

「恐る恐る、樓の内を覗(のぞ)いて見た」下人の目に写ったのは、「噂に聞いた通り」の光景だった。「幾つかの屍骸(しがい)が、無造作に棄てゝあるが、火の光の及ぶ範圍(はんい)が、思つたより狹いので、數(かず)は幾つともわからない。唯、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の屍骸と、着物を着た屍骸とがあると云ふ事である。勿論、中には女も男もまじつてゐるらしい」。
(この部分を簡潔にまとめようとしたが、できなかった。それだけ必要不可欠な表現で成り立っている文章だ。全く無駄が無い)

「勿論、中には女も男もまじつてゐるらしい」にも、「作者」が顔を出す。「(読者の皆さんお察しの通り)勿論」ということだ。

「さうして、その屍骸は皆、それが、甞(かつて)、生きてゐた人間だと云ふ事實(じゞつ)さへ疑はれる程、土を捏ねて造つた人形のやうに、口を開いたり手を延ばしたりしてごろごろ床の上にころがつてゐた」。
「屍骸は皆」、「甞(かつて)、生きてゐた」時も、常に死と隣り合わせだった。死んだような状態で、かろうじて命をつないでいたのだ。だから、生きていた時も、既に、「人間だと云ふ事實(じゞつ)さへ疑はれる程」の悲惨な有り様だった。
この部分には、このように、ふたつの意味が掛けられている。

「しかも、肩とか胸とかの高くなつてゐる部分に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなつてゐる部分の影を一層暗くしながら、永久に唖(おし)の如く默(だま)つていた」。
崩壊しつつある羅生門の2階の広間にさまざまな姿で転がる者(物)たち。もはや死んでおり、他者に疎まれるただの物体となった。それは、空虚な空間に雑然と置かれたマネキンのようだ。死んだ後であるにも関わらず、まるで生きていた時のように、それぞれがそれぞれの姿勢・身振り手振りをした状態で停止している。あるいは死後の方が、自由に自己表現できているのかもしれない。皮肉なことだ。

「口を開い」ている者は、かつて何を言いたかったのだろう?  
「手を延ばし」ている者は、何をその手に掴(つか)みたかったのだろう?
そのようなことを考えさせられる表現だ。
この世に思いを残し、無理矢理命を奪われ、その瞬間の姿のまま死んでいった者たちが「ごろごろ床の上にころがつてゐた」。
よくそのような所に足を踏み入れようと思ったものだ。
下人は悲惨や残酷に慣れてしまっている。自分にとっても死が身近だ。自分もいつ死ぬとも限らない。
常に死とともにある日常を、かろうじて下人は生きている。

「肩とか胸とかの高くなつてゐる部分に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなつてゐる部分の影を一層暗くしながら」の部分は、文字通り陰影に富んだ表現だ。とても丁寧で分かりやすい。
続く、「永久に唖(おし)の如く默(だま)つていた」からは、まるでその者たちが、自分はまだ生きていると信じているかのような様子がうかがわれる。突然、命が断絶させられたのだ。まだ、生きていたいのだ。自己の無念を話したくても話せない苦悩の表情がイメージされる。

再生・復活を望むかのような死人たちは、今にも動き出しそうだ。


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