芥川龍之介「羅生門」を読む5~下人は藁草履を梯子の一番下の段へふみかけた

  どうにもならない事を、どうにかする爲には、手段を選んでゐる遑(いとま)はない。選んでゐれば、築土(ついぢ)の下か、道ばたの土の上で、饑死(うゑじに)をするばかりである。さうして、この門の上へ持つて來て、犬のやうに棄(す)てられてしまふばかりである。選えらばないとすれば――下人の考へは、何度も同じ道を低徊した揚句(あげく)に、やつとこの局所へ逢着(はうちやく)した。しかしこの「すれば」は、何時(いつ)までたつても、結局「すれば」であつた。下人は、手段を選ばないといふ事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつける爲に、當然(たうぜん)、その後に來る可き「盗人(ぬすびと)になるより外に仕方がない」と云ふ事を、積極的に肯定する丈の、勇氣が出ずにゐたのである。
 下人は、大きな嚏(くさめ)をして、それから、大儀さうに立上つた。夕冷えのする京都は、もう火桶(ひをけ)が欲しい程の寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗(にぬり)の柱にとまつてゐた蟋蟀も、もうどこかへ行つてしまつた。
 下人は、頸をちゞめながら、山吹の汗衫(かざみ)に重ねた、紺の襖の肩を高くして門のまはりを見まはした。雨風の患のない、人目にかゝる惧のない、一晩樂にねられさうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かさうと思つたからである。すると、幸門の上の樓(ろう)へ上る、幅の廣い、之も丹を塗つた梯子(はしご)が眼についた。上なら、人がゐたにしても、どうせ死人ばかりである。下人は、そこで腰にさげた聖柄(ひぢりづか)の太刀が鞘走らないやうに氣をつけながら、藁草履(わらざうり)をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。

(青空文庫より)

下人の「明日の暮らし」は「どうにもならない」。生活を合法的に成り立たせる方策はない。それを「どうにかする爲には、手段を選んでゐる遑(いとま)はない」。
「手段を選ぶ」というのは、今まで通り、法や社会秩序に従って生きることだ。しかし、この選択肢の行く末は「死」。合法の向こうには死しか待っていない。だから、「選んでゐれば、築土(ついぢ)の下か、道ばたの土の上で、饑死(うゑじに)をするばかりである。さうして、この門の上へ持つて來て、犬のやうに棄(す)てられてしまふばかりである」となる。
「選えらばないとすれば」とは、生きるためには何でもするという選択肢だ。法を犯すことも厭わない、何でもありの生き方。そちらを選べば、生き続けることができるかもしれない。
これまで下人は、前者を選んで来た。しかしこれからは、そうも言っていられない状況に陥っている。手段を選べば死が待つ。死ぬのはいやだ。であるならば……というのが、今の下人が置かれた状況だ。
「築土(ついぢ)の下か、道ばたの土の上で、饑死(うゑじに)をする」と、その惨めな姿を主人を初めとする他者に見られ、蔑まれることになる。あいつはきれいごとのために死を選んだ、と。
「さうして、この門の上へ持つて來て、犬のやうに棄(す)てられてしまふ」と、あの鴉に肉を食いちぎられる。既に死んだ後とはいえ、それも想像するといやだ。

だから「――下人の考へは、何度も同じ道を低徊した揚句(あげく)に、やつとこの局所(手段を選ばないとすれば)へ逢着(はうちやく)した。しかしこの「すれば」は、何時(いつ)までたつても、結局「すれば」であつた。下人は、手段を選ばないといふ事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつける爲に(「すれば」を選んだとしたら)、當然(たうぜん)、その後に來る可き「盗人(ぬすびと)になるより外に仕方がない」と云ふ事を、積極的に肯定する丈の、勇氣が出ずにゐたのである」。
繰り返しになるが、下人はこれまで法の秩序を守って生きて来た。その人生の方針を180度変えるのは、やはり「勇氣」が必要だろう。まして、彼の場合は、悪へと足を踏み入れる「勇氣」を持たなければならない。
生きるためには悪にならねばならぬ。しかしその一歩を踏み出すことはためらわれる。判断・決断がつかない下人。

だから「下人は、大きな嚏(くさめ)を」する。「それから、大儀さうに立上」る。考えることに疲れ、判断を一時保留にしたのだ。
気がつくと、だいぶ気温も下がって来た。「夕冷(ゆふひ)えのする京都は、もう火桶(ひをけ)が欲しい程の寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける」。
寒さが増してきた京都での路上生活は、耐えがたかろう。降雨、季節は冬へ、時間は夜へ。おまけに冷たい風まで吹いている。路上生活者には最悪の状況だ。
だから、「丹塗(にぬり)の柱にとまつてゐた蟋蟀も、もうどこかへ行つてしまつた」。コオロギも退場し、巣に帰る。あるいは寒風に吹き飛ばされたか。
羅生門に残された命ある最後の存在である下人も、ねぐらを探さねばならぬ。

「下人は、頸をちゞめながら、山吹の汗衫(かざみ)に重ねた、紺の襖の肩を高くして門のまはりを見まはした。」
「頸をちゞめ」、「肩を高くして」は、いずれも寒さ対策の行動。

蟋蟀に倣って下人も、「雨風の患のない、人目にかゝる惧のない、一晩樂にねられさうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かさうと思」う。
「人目にかゝる惧のない」とは、盗賊が出没する場所なので、それから逃れるためだ。

「すると、幸門の上の樓(ろう)へ上る、幅の廣い、之も丹を塗つた梯子(はしご)が眼についた。上なら、人がゐたにしても、どうせ死人ばかりである。」
下人は今や、「上なら、人がゐたにしても、どうせ死人ばかりである」という異常な感覚の持ち主になっている。確かに、羅生門の上階の広間なら、雨風を防ぐことも、盗賊に襲われることも避けられる。しかしそこには死体がごろごろ転がっているのだ。下人は、死体たちとの一夜を厭わない。それがいるから誰も近寄らない場所をあえてえらび、嫌悪感を抱かずにそこに進もうとする。下人の感覚は、異常に慣れてしまっている。異常を異常と思わない下人。
「作者」は、下人の考えを代弁する。「人がゐたにしても、どうせ死人ばかり」だと。「作者」の感覚も下人と同様、異常だ。

「下人は、そこで腰にさげた聖柄(ひぢりづか)の太刀が鞘走らないやうに氣をつけながら、藁草履(わらざうり)をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。」
身を守るための武器をその都度確認する下人。これがなくては・これを頼りに、未知の2階へと向かう。その履物は粗末な「藁草履」。足はさぞ冷たかろう。
それを「梯子の一番下の段へふみかけ」る。羅生門の下から楼の上へと、一歩を踏み出す下人。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?