【短編小説】もう一つの影法師
いつもの駅のいつものホーム。
電車を待ち、並ぶ人たちを、朝日は正面からギラギラ照らしていた。
人込みを避け、離れた場所に立つ男は、まぶしさを逃れるためにうつむいた。
その時彼を、何とも言えない違和感が包んだ。
自分の前に、影法師が伸びている。
太陽の方向に伸びる影法師。
振り返ると、いつもの影法師もちゃんと後ろにある。
足下から伸びるふたつの影法師。
きっと駅のライトのせいだろう。
こんなことはよくあることだ。
そう、男は小さく独りごちた。
つまらぬことに拘泥するな。
これから会社に向かわねばならぬ。
轟音とともに電車が滑り込む。
ドアと人とのわずかなすき間に自分のからだを無理矢理押し入れ、揺れる電車の床を踏ん張り、人をかき分け電車を降り、会社へ向かう。
駅を出れば、幾分かからだと心の余裕を得ることができる。
会社へと続く歩道を歩く。
途中、信号が赤に変わり、男は交差点の手前に立った。
左から照らす太陽を遮るものは何もない。
べとつく夏が近づく憂鬱。
どこかに日陰はないかと辺りを見回す男を、再び違和感が襲った
1つはいつものもの。
もう1つはその反対方向に伸びている。
それは明かりの性質を無視した影法師だった。
男の額に汗がにじむ。
鼓動がやや不規則になる。
自分の左右に伸びる影法師に、男は少しのめまいを感じた。
信号が青になった。
何があっても会社へ行かねばならぬ。
今日は大事な打ち合わせがある。
男は、大きな利益が見込まれる商談を担当していた。
その日から男は、2つの影法師の所有者となった。
新たに出現したもう一つの影法師への戸惑いと恐れ。
しかし、他人に相談できることでもない。
気でも違ったかと侮蔑されるだけだ。
幸い、違和感以外に特に変化や支障はない。
他人にも気づかれていない。
今は目の前の仕事のことで手いっぱいだ。
これはこれでしばらく肯定し、やり過ごすことにしよう。
そのうちにこの違和感もいつの間にか消えるだろう。
今時珍しい、喫煙ができる店。
紫煙をくゆらせ、テーブルを指先で軽く叩く女。
遅れるという連絡はあった。
しかしそれが小一時間というのはどうなのか。
それにふたりの関係性に少しの疑問を持ち始めている。
女はそんなことを繰り返し考えていた。
彼女がタバコを吸う姿はとてもさまになる。
しかし男はタバコが嫌いだった。
煙が身体にまとわりつくような気がする。
頭とのどが痛くなる。
彼女との待ち合わせは、いつも喫煙可の店だった。
結局うまくいくはずはなかった。
別れは突然訪れた。
いつかそうなるという予感に似たものもあった。
数日後。
男のミスが明らかになった。
取引先との確認を怠ったせいだ。
彼にしては珍しいことなのだが、いかんせん致命的なミスだった。
彼女との別れのせいか、もう一つの影法師のせいなのか。
信頼関係は、何事にも優先する。
帰宅の途上、失意にうつむく男の前に伸びるのは、あの影法師だった。
いつもとは長さが違う。
それに、角度も違う気がする。
翌朝、駅に向かう男の足取りは重かった。
からだに力が入らない。
それでも男は無理に足を片方ずつ持ち上げ、前へと置いた。
それが前進する方法だ。
目の前に伸びるもう1つの影法師。
それは、太陽とは別の方向を向いていた。
その瞬間、男の瞳は回転し、激しいめまいが生じた。
卒倒しそうになる。
男は慌てて両足を踏ん張った。
めまいだけではない。
何かの強い力が、彼の体を操ろうとする。
そちらに身体が引っ張られる。
強い力が働く方向には、例の影法師がくっきりと存在していた。
漆黒の色が濃くなったように感じる。
それは太陽とも駅とも違う方向に伸びている。
まるで矢印のように、強引に男を導く。
抗うことを許さない。
自動的にそちらに身体が動いてしまう。
そうして男は、もう1つの影法師が長く伸びる方向に向かって歩き続けた。
やがて男の姿は消え、もう1つの影法師だけが、どこまでもどこまでも伸びて行った。
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