夏目漱石「こころ」下・先生と遺書五十二「告白を抑え付ける力」
「私の亡友に対するこうした感じはいつまでも続きました」
前話で先生は、「私の幸福には黒い影が随(つ)いていました」と言い、また「私はその新しい墓と、新しい私の妻と、それから地面の下に埋(うず)められたKの新しい白骨とを思い比べて、運命の冷罵(れいば)を感ぜずにはいられなかったのです」と述べていた。「こうした感じ」とは、これらを指す。お嬢さんとともにいる幸福。しかし、その後ろには、常に「Kの黒い影が随(つ)いて」いる。「運命の冷罵」が先生を苦しめる。
先生は確かに、自分で言うように、「自分で自分の先が見えない人間」だ。その場の感触・印象で、とりあえずの判断をし、行動する。その基準は、保身だ。先を見通した、熟慮のもとに取られた行動ではない。ただ自分の身に火の粉が降りかからないような策略を巡らし、真実を隠し通す。お嬢さんへの恋も、Kへの説明も、Kの死因についても、すべてがこのような態度で行われる。物事を「ぐるぐる」考える癖があるにもかかわらず、重要な事柄についての思考の過程やそこから導き出される結論が、いつも間違っている。肝心なところで、いつも誤った方の選択肢を選ぶのだ。これは、「先見の明がない」というのとは違う。先生は、保身を元に、物事を判断する。
このあたりをもう一度整理したい。
先生はKの葬式に参列している。火葬や納骨にも同行し、Kの「白骨」を、実際にその目で見たかもしれない。また、お墓や墓石の購入を手配し、費用も幾分か負担したかもしれない。先生は、「その新しい墓と、新しい私の妻と、それから地面の下に埋(うず)められたKの新しい白骨とを思い比べて、運命の冷罵(れいば)を感ぜずにはいられなかった」。
また、先生は、毎月、Kの墓に墓参している。お嬢さんを見ても、その後ろにKの影が立つ。つまり、Kの死後も先生は、継続的にKの死を、「体験」し続けているのだ。それにもかかわらず先生は、一年も経たずにお嬢さんと結婚をする。Kの背中を死へと押したという意識を持っている先生に、良心の呵責というものは無いのか。
また先生は、「年来の希望であった結婚すら、不安のうちに式を挙げたといえばいえない事もないでしょう。」と言う。
「といえばいえない事もないでしょう」とは、「控えめにいってそう言える」という意味だ。「『言えない』と言うと間違いだが、強く『そう言える』とも言いづらい」。何なのでしょう、この言い方は? 分かりづらい表現。つまり、「長年の念願かなってお嬢さんと結婚したけど、ちょっとだけ不安だった」ということだ。「少しの不安」に、良心はあるのか?
さらに続きます。
「しかし自分で自分の先が見えない人間の事ですから、ことによるとあるいはこれが私の心持を一転して新しい生涯に入る端緒(いとくち)になるかも知れないとも思ったのです。」
Kの死への懺悔を保留にしたまま、お嬢さんとの結婚をきっかけとして、日々の鬱屈からの解放を願う先生。それは虫が良すぎるというものだ。
Kに、「新しい生涯」は無い。自分だけが愛人と幸せになりたいと考えても、無理なことだろう。つまり先生は、まだ片を付けていないのだ。けじめがついていない。自分の罪を保留にしたまま、自分だけが幸せになろうとしている。
そうして、こう考えてくると、やはりこのような心の持ち主である先生には、強烈な自死の現場をしっかりと見せつけて正解だった。そうしないとこの人は、忘れてしまうだろう。Kがそこまで読んで自殺の現場を作ったかは不明だが、とにかく逃げよう、すべてを保留にしようとする先生には、凄惨な自死の現場を体験させる必要があった。
まだ、続くのです。
「私の果敢(はかな)い希望は手厳しい現実のために脆(もろ)くも破壊されてしまいました。」
「私の果敢(はかな)い希望」は、「せめてこれくらいは願ってもいいよね。だって、ボク、弱い人間だからさ」と読めるし、「手厳しい現実のために脆(もろ)くも破壊されてしまいました」も、「そんなに厳しく破壊しなくてもいいじゃないか。だって、ボクのこころは脆いからさ」と読める。まるで自分が被害者のようだ。「自分は何も悪いことをしていないのに、そんなに手厳しく批判する必要ないじゃないか」、と読めてしまうということだ。
このような先生を、真に覚醒させるためには、「妻と顔を合せているうちに、卒然(そつぜん)Kに脅(おびや)かされる」必要がある。「妻が中間に立って、Kと私をどこまでも結び付けて離さないように」し続けなければならない。結局それでも先生は、覚醒せずに、自殺という一番卑怯な手段に出るのだが。
愛人を見るたびに、その後ろにKの姿が映し出され、自分の罪を責め立てられる。だから「彼女を遠ざけたが」る。不幸なことだ。
「女の胸にはすぐそれが」「映るけれども、理由は解らない」。だからお嬢さんから、「なぜそんなに考えているのだとか、何か気に入らない事があるのだろうとかいう詰問(きつもん)を受け」ることになる。
お嬢さんの、「あなたは私を嫌っていらっしゃるんでしょう」、「何でも私に隠していらっしゃる事があるに違いない」という言葉を、先生は、「怨言(えんげん)」と受け取り、「私はそのたびに苦しみました」と言うが、先生は間違っている。先生がすべきだったのは、お嬢さんのそれぞれの質問に、そのまま素直に正直に答えることだ。それこそが、先生の懺悔となるはずだった。だから先生はこの時、お嬢さんからの折角のパスをスルーしてしまった。だから試合(自分)に負け、敗戦(自殺)したのだ。
(もっともこの、「何でも私に隠していらっしゃる事があるに違いない」という言葉は、「他に好きな女がいるから、私にそっけないのでしょう」という意味で、この場面では用いられている。)
お嬢さんがもし、本当に何も知らないのだったら、かわいそうな人だ。愛する夫からは何も話してもらえず、理由も無く自分は嫌われているように感じ、もしかしたらほかに女がいるのではないかと疑い、どんどん夫は精神不安に沈んでいく。理由が分からないから、対処のしようがない。最後にはどことも知れぬ場所に姿を消すということまでされたお嬢さんは、何ともやるせなく、怒りの持って行き場がなかっただろう。自殺の方法によっては、先生の遺体も発見されない可能性もある。その場合は、行方不明だ。
その一方で、もしお嬢さんがKの自殺について何かを少しでも勘づいていたとしたら、全く別の物語になる。
「Kの自殺後、夫の様子が変化し続けた。自分を愛してくれているはずなのに、確信が持てない。それどころか、自分を避けているようにも見える。これはやはり、Kの自殺と夫の間には何かがあった。そうであるならば、そこに自分が絡んでいることも十分に考えられる。もしかすると、自分の恋の駆け引きが原因かも。少しやりすぎたか。Kは何も言わなかったが、どうやら自分が好きになっていたようだ。夫の求婚も突然だった。そうすると、自分たちは三角関係にあったということになる。であるならば、夫との婚約は、Kにとっては失恋ということになる。失恋による自殺? そうでなくでも、Kの自殺に、このことが全く関係ないとは言えないだろう。自分にも、罪があることになる。でもそれは、誰にも言えない。
夫にも、何か隠していることがあるようだ。それを告白してくれないものか。恋の秘密の告白を。Kが自殺した本当の理由は何なのか? それに夫や自分はどうかかわっているのか? その答えを知っている夫に、すべてを話してほしい。」
これが、「何でも私に隠していらっしゃる事があるに違いない」という言葉の意味だ。
「私は一層(いっそ)思い切って、ありのままを妻に打ち明けようとした事が何度もあります。しかしいざという間際になると自分以外のある力が不意に来て私を抑(おさ)え付けるのです。」
「いざという間際になると自分以外のある力が不意に来て私を抑(おさ)え付けるのです」と説明する先生。「自分以外のある力」って、何ですか? いったい何を言っているのだろう。またここでも、ひとのせい。自分には瑕疵(かし)がないという態度。保身。しかもその訳の分からぬ何者かが、「不意に来て」「押さえ付け」たから逃げられなかったと言われても、読者にとっては理解の外だ。
「自分はちゃんと、正直に告白しようとした。でも、それを邪魔するものがいた。だからそいつが悪いのだ。自分は悪くない。」 子どもの論法だ。
それでね、われわれ読者は、いったいその「自分以外のある力」とは何ぞやと思いながら続きを読むじゃないですか。で、その答えにガッカリ・啞然(あぜん)とさせられるのです。
先生の「自然」・「良心」を妨害した「ある力」とは、「妻の記憶に暗黒な一点を印(いん)するに忍びなかった」・「純白なものに一雫(ひとしずく)の印気(インキ)でも容赦(ようしゃ)なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だった」ということだ。
「自分以外の」とあるから、先生の外側にある何ものかが、先生を止めたように思っているところに、「忍びなかった」・「苦痛だった」と、先生自身の感情が説明されても、理解しがたい。それはあなたの「こころ」ではないか。「自分以外」どころか、あなた自身の感情ではないか。それとも、「忍びなかった」・「苦痛だった」という感情は、自分本来のものではないということか。しかし、そうではなさそうだ。とすると、結局どうなの? ということになってしまう。
以上は、表現についての疑問だが、その内容も告白を止める原因としてはにわかに納得しづらい。重さが釣り合わないのだ。「自分の罪の告白」という先生の人生にとって重大・大切な行為と、「悲惨な出来事を告げることで、愛人を嫌な気持ちにさせたり悲しませたりするのを避けたい」という感情。
後者は、一時の回避でしかない。これでは問題は残り続ける。前者を行なわないと、永遠に苦み続けなければならなくなる。前者は根本治療で、後者は対処療法だ。先生は、問題の根本的な解決を回避してしまった。
従って、「自分以外のある力」とは、お嬢さんということになる。美しいお嬢さんの美しい記憶を保ちたいということから、告白が妨げられた。「こんな嫌な話を聞かせたら、お嬢さんのせっかくの美しさが汚される」ということ。「美」は、何ものにも優先するのか? 「美」とは、それだけで罪だということを感じさせる。そうすると、お嬢さんは、我知らず罪を犯したことになる。
「その時分の私は妻に対して己(おのれ)を飾る気はまるでなかったのです。」
Kの死の事情の告白をしないことは、そもそも、「己を飾る」(自分を良く見せよう)という問題ではない。また、先生は、お嬢さんに対して十分に「己を飾」り続けている。
更に、「私が亡友に対すると同じような善良な心で」とあるが、先生が「亡友に対」して「善良な心で」対処しているとはとても思えない。先生は、Kが亡くなった後も、Kに対して不誠実だ。そうして今は、お嬢さんに対しても不誠実だ。だから、よく、「善良な心」などと言い切れるものだ。
(この先生の文言を読みながら、青年はどう思っただろう? ちょっと感想を聞いてみたい。自分に対しては「真面目」であることを強く求めた先生のこの不真面目な態度)
これに対し、告白の断念の犯人だと指名されてしまったお嬢さんの方は、告白の断念を望んだだろうか。先生が言うように、お嬢さんは、「もし私が亡友に対すると同じような善良な心で、妻の前に懺悔の言葉を並べたなら、妻は嬉(うれ)し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いない」人だ。お嬢さんは、「何でも私に隠していらっしゃる事があるに違いない」と言っている。お嬢さんは、夫の告白を待っている。だから先生は、それに応えなければならなかった。
先生は、お嬢さんを汚したくないがために罪の告白を断念するが、先生自身分かっているように、お嬢さんはそれを望み、また、告白後には、先生の罪を許してくれただろう。だから、「自分以外のある力」とは結局、先生自身に由来している。先生自身がどうするかを決定する意志と権利を持っていたのだ。従って、告白の断念は、先生自身の意志ということになる。告白「しない」ことを選択した先生。ここでも説明・行動を「しない」方が選択される。しかし、導火線に火はついている。
「私を理解してくれるあなたの事だから、説明する必要もあるまいと思いますが、話すべき筋だから話しておきます。」
私には、先生の考えや態度の保留は、理解・納得できない。
「一年 経(た)ってもKを忘れる事のできなかった私の心は常に不安でした。」
この、「一年経っても」は、結婚してからと見るのがよいだろう。
「Kを忘れる」からは、先生が、文字通りKを忘れようと努めたことが分かる。Kの呪縛が解かれることを求めた先生だが、それはかなわない。「不安」は「常に」続いた。
このことは、中途半端な良心が先生にはあったということを表す。だから、Kのことなどすっかり忘れ、スッキリした気持ちになることもできなかった。もし先生が完全なる良心欠如の存在だったら、何も考え、何も悩まずに、愛人との幸福を享受していただろう。
先生は、継続する「不安を駆逐するために書物に溺れようと力(つと)め」る。「猛烈な勢いをもって勉強し始めた」。しかし、「書物」や「勉強」は、「不安」の「駆逐」の役には立たなかった。
「勉強」の「結果を世の中に公(おおやけ)にする」という「目的」のための行動は、決して「不安」の解消にはならない。
勉強の結果は、自分の学問の成果として公にされるべきものだ。それに対し、自分が行なっている勉強は、不安解消が目的になっているので、勉強本来の成果とはなっていない。学問の発展のための勉強ではなく、ただ単に自分の不安を解消するための勉強だから、邪道・「嘘」になる。
「妻はそれを今日(こんにち)に困らないから心に弛(たる)みが出るのだと観察していたようでした。」
東京大学を卒業した者は、将来の日本をしょって立つ存在だ。そのような人を夫として持ったお嬢さんが、先生に期待するのは当然だろう。若さから来る意気込みもあるだろう。その期待が外れてしまった時、お嬢さんの落胆は大きい。期待が大きければ大きいほど、失望の幅も大きくなる。だから、「今日(こんにち)に困らないから心に弛(たる)みが出るのだ」、つまり、先生は、怠け心から働かないのだ、という思いが起こるだろう。先生にしてみれば、そう思われてもしょうがないということになる。だから先生は、「と観察していたようでした」と推し量るのだ。
「妻の家にも親子二人ぐらいは坐っていてどうかこうか暮して行ける財産がある上に、私も職業を求めないで差支(さしつか)えのない境遇にいたのですから、そう思われるのももっともです。」
「妻の家にも親子二人ぐらいは坐っていてどうかこうか暮して行ける財産がある」という情報は、ここで初めて示される。
夫を戦死で失った奥さんたちは、素人下宿を始めるのだが、先生が下宿する前は、給料の少ない役人でも住まわせようかと考えていたということが、以前述べられていた。従って、男手のなくなった家に住んでもらうことで、いわば用心棒代わりの存在になってもらうことも期待しての下宿人募集ということもあろうが、やはり少しでも下宿代を稼ぐことによって、生活費やお嬢さんの結婚に備える費用を賄おうと考えたのだろう。奥さんたちが本当にお金に困っていないのであれば、下宿人を預かる理由はない。
また、「私も職業を求めないで差支(さしつか)えのない境遇にいた」ということについては、別に説明した通りだ。この三人家族は、そこそこの金持ちだ。
「私も幾分かスポイルされた気味がありましょう。しかし私の動かなくなった原因の主なものは、全くそこにはなかったのです。」
「スポイル」…扱い方を誤るなどして、そのもの本来の性能が発揮できない状態にする。狭義では、人を甘やかし過ぎてだめにすることを指す。(三省堂「新明解国語辞典」第6版)
結婚後の先生が、働かなくても生活できてしまうので、何の活動もしない様子。「そこ」とは、小金があるため怠惰であること。
働かないことについて、先生は、次のように説明する。
自分が「動かなくなった原因の主なものは」、「自分はまだ確か」・「世間はどうあろうともこの己(おれ)は立派な人間だという信念がどこかにあった」のだが、「それがKのために美事(みごと)に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらし」、「自分にも愛想を尽かして動けなくなった」からだ。
つまり、Kの事件により、自分は立派な人間だという思いが破壊され、自分を侮蔑し、その存在に疑問を持つようになったから働けなくなった、ということ。
叔父に欺かれた先生は、自分だけはそのようなことはするまいと固く決意したはずだったが、その自分がKを死なせてしまったことで、「自分もあの叔父と同じ人間だと意識し」た時、先生は「急にふらふらし」、「自分にも愛想を尽かして動けなくなった」。
叔父の裏切り、Kの自殺、それらによる自己の活動の制約・停止、という論理だ。ここでも先生は、他者(の影響)によって、自分が制約され、自己の活動が阻害された、と語る。自分がこのようであるのは、他者のせいだ。これを裏返せば、だから自分のせいではない、ということになってしまう。
この姿勢を改めない限り、先生に幸せは訪れない。もういい加減、気づけよ!と、発破をかけたいところだ。でも、動かない先生。それと、先生が動くときには、激しく間違った方向に突然動く。結婚の申し込みの時もそうだし、自身の自殺の場面もそうだ。
先生が「愛想を尽かす」べき相手は、エゴを貫いた自分ではなくて、それによって生じた結果をじっと見つめ、反省し、懺悔することができない自分だ。そしてそこには、お嬢さんへの告白が必要になる。先生が告白すべき相手は、青年ではない。
エゴがエゴを呼び、すべての人が不幸になる物語。夫失踪後の奥さんはどうなるのかを、先生は真剣に考えたのだろうか。俺が死んでも金には困らないというのは、死んでいい理由にはならない。そんなこともわからない先生。そんな人を「先生」とは呼びたくない。
先生は、自分の失敗をあなたの人生に生かせと言う。しかし、こんなダメ男の堕落した姿には、嫌悪感しか抱けない。それが、青年と読者の素直な感想だろう。
なぜなら、先生には、自身が望んだ「新しい生涯」を手にするチャンスが、何度もあったからだ。
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