芥川龍之介「羅生門」を読む9~老婆の【悪の論理】

    まぶたの赤くなつた、肉食鳥のやうな、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、殆、鼻と一つになつた唇を、何か物でも噛んでゐるやうに動かした。細い喉で、尖つた喉佛(のどぼとけ)の動いてゐるのが見える。その時、その喉から、鴉の啼くやうな聲が、喘ぎ喘ぎ、下人の耳へ傳はつて來た。
「この髮を拔いてな、この女の髮を拔いてな、鬘(かつら)にせうと思うたのぢや。」
 下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。さうして失望すると同時に、又前の憎惡が、冷な侮蔑と一しよに、心の中へはいつて來た。すると、その氣色が、先方へも通じたのであらう。老婆は、片手に、まだ屍骸の頭から奪(と)つた長い拔け毛を持つたなり、蟇(ひき)のつぶやくやうな聲で、口ごもりながら、こんな事を云つた。
 成程、死人の髮の毛を拔くと云ふ事は、惡い事かも知れぬ。しかし、かう云ふ死人の多くは、皆、その位な事を、されてもいゝ人間ばかりである。現に、自分が今、髮を拔いた女などは、蛇を四寸ばかりづゝに切つて干したのを、干魚(ほしうを)だと云つて、太刀帶(たてはき)の陣へ賣りに行つた。疫病にかゝつて死ななかつたなら、今でも賣りに行つてゐたかもしれない。しかも、この女の賣る干魚は、味がよいと云ふので、太刀帶たちが、缺かさず菜料(さいれう)に買つてゐたのである。自分は、この女のした事が惡いとは思はない。しなければ、饑死(うゑじに)をするので、仕方がなくした事だからである。だから、又今、自分のしてゐた事も惡い事とは思はない。これもやはりしなければ、饑死をするので、仕方がなくする事だからである。さうして、その仕方がない事を、よく知つてゐたこの女は、自分のする事を許してくれるのにちがひないと思ふからである。――老婆は、大體こんな意味の事を云つた。
 

(青空文庫より)

「まぶたの赤くなつた、肉食鳥のやうな、鋭い眼で見たのである。」
「肉食鳥」は、自分が生き延びるためには、相手を殺しても、その肉を食らってもいいとする様子。老婆はこの論理に従っている。そのような老婆に「鋭い眼」で見られている 下人の方も、次の瞬間には反抗され、命が奪われる可能性がある。まさに弱肉強食の世界。油断し、隙を見せた方が負けなのだ。そして負けは、死を意味する。

「皺で、殆(ほとんど)、鼻と一つになつた唇を、何か物でも噛んでゐるやうに動かした。」
これは、生きるために、 常に食べるものを欲している様子も表す。

「細い喉で、尖つた喉佛(のどぼとけ)の動いてゐるのが見える。」
まさに「肉食鳥」が獲物を飲み込むかのようだ。 このような細かい説明・情景描写が、この場面を立体化し、読者の想像をかき立てる。下人と老婆との命のやり取りの緊迫した場面を強調する、 巧みな描写。

「その時、その喉から、鴉の啼くやうな聲が、喘ぎ喘ぎ、下人の耳へ傳はつて來た。」
鴉の啼く聲は甲高く、ひどく耳につく耳障りな鳴き声だ。だから老婆の声は、生きている人間が他に誰もいない広間に、「喘ぎ喘ぎ」ではあるが、甲高く響き渡っただろう。下人の耳にも、しっかり「傳はつて來た」。

「「この髮を拔いてな、この女の髮を拔いてな、鬘(かつら)にせうと思うたのぢや。」
 下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。」
「こんなところでお前は一体何をしているのだ」という下人の問いに対する答えとしては、あまりにも「平凡」な答えで、確かに「失望」するしかないだろう。なぜなら下人は、よりおぞましい、何か恐るべき目的のために、老婆が女の死骸から髪の毛を抜いていると想像していただろうからだ。女から髪を抜き、それを材料としてカツラを作るというのでは、あまりに平凡で全くつまらない。その答えでは、今夜の下人の無聊(ぶりょう)を慰める材料にはなりえない。下人は退屈しているのだ。つまらぬ答えに「失望」する下人。

「さうして失望すると同時に、又前の憎惡が、冷な侮蔑と一しよに、心の中へはいつて來た。」
つくづくコロコロ気持ちが変わる男だ。今回もまた性懲りもなく、悪に対する憎悪らしきものが蘇ってくる。しかもそれは今回、冷ややかな侮蔑も一緒に連れて来る。
この物語は、下人と「作者」が、まるで同一人物のように融合し、考え、行動し、物語る。 ここで下人はおそらく、自分の心情の推移・変化を誇っているだろう。自分の心はこれほどまでに繊細で、よく働くものだと考えている。と同時にそれは「作者」も同様だ。「作者」は、下人の心情を詳細に書き表すことができている自分に酔っている。下人の心情分析の緻密さを誇っている。
「心の中へはいつて來た」 という
比喩表現は、まるで下人の心情の箱が下人の心や体の外にあり、その場面や状況に応じて、そのカセットが簡単に入れ替わるという様子を表しているようだ。 簡単に取り替え可能な下人の心情。しかも その操作は、下人自身は自分で行っているように思っているのかもしれないが、実はただ単に、外界のささいな刺激によって簡単に変えられてしまう、とても頼りないものなのだ。その意味で言えば、下人は、他者に簡単に操作されてしまう可能性がある。若く、力もある人物であるが、その心の様子は、まだ自己確立がなされていない。外界の刺激に、過敏・鋭敏に反応し、簡単に変化してしまう。未熟で幼い下人。

「すると、その氣色が、先方へも通じたのであらう。老婆は、片手に、まだ屍骸の頭から奪(と)つた長い拔け毛を持つたなり、蟇(ひき)のつぶやくやうな聲で、口ごもりながら、こんな事を云つた。」
下人に押さえつけられ身動きが全く取れない老婆は、生き延びるために、下人の表情・様子を敏感に感じ取る。下人をしっかり観察するのだ。
下人の失望と憎惡・侮蔑を感じた老婆は、それでも決して獲物は逃がさない。だから、このような状況になっても、「片手に、まだ屍骸の頭から奪(と)つた長い拔け毛を持つたなり(まま)」なのだ。
「蟇(ひき)のつぶやくやうな聲で、口ごもりながら」、延命のための 言い訳を長々と説明し始める老婆。生き延びるためにできることは、何でもせねばならぬ。だから老婆は、自分なりに一生懸命考え、論理立てて、下人に説明しようとする。下人を説得しようとする。ここは是が非でも納得してもらわなければならないのだ。しかしこの悪の論理が下人に通用する確信もない。考え考え話すので、口ごもり、また、つぶやくような声になる。
だがそれは、所詮悪の論理でしかなく、悪への憎悪と侮蔑を抱いている下人にとっては、ヒキガエルが呟いているようにしか聞こえない。悪に染まった人間が今更何を言う、何を弁解しようとするのだ、と思いながら、下人は老婆の話を聞いている。

次はいよいよ、老婆の悪の論理が 展開される有名な場面だ。はたして老婆は、自分の悪の行為を、どのように弁解しようとするのか。下人と「作者 」は興味を持ってそれを聞くことになる。

ところで、「こんな事を云つた」・「老婆は、大體こんな意味の事を云つた」とあるから、老婆の弁明をそのまま書き記したのではなく、「作者」がまとめ直した言葉だ。そして、まとめ直したということは、老婆の言葉をそのように理解したということだ。

「成程、死人の髮の毛を拔くと云ふ事は、惡い事かも知れぬ。」
「成程」は、「確かにお前が悪に対して憎悪している通り」の意。お前が怒りを抱くのは当然だ。「死人の髮の毛を拔くと云ふ事は、惡い事かも知れぬ」の「かも知れぬ」は、推量表現だが、ここで老婆は、死人の髪の毛を抜くという自分の行為は悪いことであると、世間からは認定・認識されることを認めている。「確かに悪いことなのだろう。しかしそれは、自分もちゃんと分かっている」の意。

「しかし、かう云ふ死人の多くは、皆、その位な事を、されてもいゝ人間ばかりである。」
この理由については、この後すぐに説明されるが、悪事を働いたものには報いがある、そしてそれは当然のことなのだと老婆は言いたいのだ。ここに転がっている死体たちはみな、生きている時に、他者に対してさんざんひどいことを行ってきた。であるならば、死んだ後に他者からひどいことをされても文句は言えない、と老婆は説明している

次にはその具体例が説明される。「現に、自分が今、髮を拔いた女などは、蛇を四寸ばかりづゝに切つて干したのを、干魚(ほしうを)だと云つて、太刀帶(たてはき)の陣へ賣りに行つた。疫病にかゝつて死ななかつたなら、今でも賣りに行つてゐたかもしれない。」
「自分に髪を抜かれていたこの女も、生前ひどいことをしていた。 蛇を干した魚だと嘘をついて売り歩いていた。しかもそれによってだいぶ儲けていたようだ。」と、老婆は言う。この女のした行為は、現在ならば詐欺罪に当たるだろう。嘘をついて人を騙し、それによって利益を得ている。 いくら 生きるためとはいえ、悪・罪であることには変わりない。

「疫病にかゝつて死ななかつたなら、今でも賣りに行つてゐたかもしれない。」
「さらに悪いことには、もし今もこの女が生きていたとしたら、性懲りもなく嘘をついて、蛇を売り続けていたことだろう。この女は生前、自分が行っている悪の行為を全く反省していなかった。それどころか、その行為をし続けようとしていたひどいやつだ」ということ。

ここまでの老婆の主張・悪の論理をまとめると、次のようになる。
【悪は許される】
1.悪への悪
他者に対してさんざんひどいことを行ってきた悪いやつは、他者からひどいことをされても文句は言えない。しかもそいつらは、全く反省などしていない。
だから、悪人に対する悪は許される。

続いて老婆は、「自分は、この女のした事が惡いとは思はない」とする。
これは、 髪を抜かれた女の行為は悪であるという先ほどの認定を取り消した表現になる。その上で、老婆は続ける。
「しなければ、饑死(うゑじに)をするので、仕方がなくした事だからである」
それをやらなければ自分が死んでしまうという場合に行う悪は、悪にはならない、という意味だ。
この論理に則り、「だから、又今、自分のしてゐた事も惡い事とは思はない。これもやはりしなければ、饑死をするので、仕方がなくする事だからである」と規定する。
これは今でいう「緊急避難」に当たるだろうか。自分の命が脅かされそうになった場合には、法を犯すことも許容されるということだ。
なおこの場合、本当にそれを行う必要があったのかという必然性が問われるだろう。何事であっても全てが許容されるというわけではないし、程度というものがある。だから、 髪を抜かれた女のした行為が、その状況下で許容される範囲内のものであったのかどうか、ということを考察する必要がある。
老婆はこの女の行為を、それをしなければ飢え死にをしてしまうから、仕方がなくしたことだ、と認定している。その上で、今自分もこの女の髪の毛を抜いてそれを材料にかつらを作って売らなければ死んでしまうから、仕方がなく髪を抜いているのだ、と説明する。 生きるためには食べなければならない。食べるためには、金を稼がなければならない。金を稼ぐためには、たとえ死んだ女の髪の毛であろうともそれを抜き、かつらの材料としてそれを売らなければならない。これが、老婆の論理だ。

「さうして、その仕方がない事を、よく知つてゐたこの女は、自分のする事を許してくれるのにちがひないと思ふからである。」
「この女も自分が生きるために仕方なく蛇を魚だと嘘をついてそれを売り、生き続けることができた。だからこの女も、生きるためには法を犯しても仕方がない、ということをよく知っている。そうであるならば、死体から髪を抜く自分の行為も、生きるために仕方なくすることだと、この女は許してくれるはずだ」と、老婆は言う。

2つ目の老婆の主張・悪の論理をまとめると、次のようになる。
【悪は許される】
2.生きるために仕方なく行う悪
それをやらないと自分が死んでしまう時に行う悪は許される。また、それを理解していた女は、自分の悪を許してくれるはずだ。


○老婆の悪の論理のまとめ
【悪は許される】
1.悪への悪(自業自得)
2.生きるために仕方なく行う悪(緊急避難)

老婆は、「悪への悪は悪ではない」、「 生き延びるための悪も、悪ではない」、と、規定する。これが老婆の、悪の規定・論理だ。
あとは、我々読者が、老婆の悪の論理を、どう考え、判断するかだ。
悪は許される場合があるのか。
それとも、悪は、絶対的に悪であり、全否定されるべきものなのか。


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