芥川龍之介「羅生門」を読む3~死と悪の巣窟

  何故(なぜ)かと云ふと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云ふ災ひがつゞいて起つた。そこで洛中(らくちう)のさびれ方(かた)は一通りでない。舊記によると、佛像や佛具を打砕(うちくだ)いて、その丹(に)がついたり、金銀の箔(はく)がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪(たきぎ)の料(しろ)に賣つてゐたと云ふ事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てゝ顧(かへりみ)る者がなかつた。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸(こり)が棲む。盗人(ぬすびと)が棲む。とうとうしまひには、引取り手のない死人を、この門へ持つて來て、棄てゝ行くと云ふ習慣さへ出來た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも氣味を惡るがつて、この門の近所へは足ぶみをしない事になつてしまつたのである。

(青空文庫より)

この部分ではまず、前段の最後にあった、「この男のほかには誰もいない」理由が述べられる。 結論を先に言うと、「日の目が見えなくなると、誰でも氣味を惡るがつて、この門の近所へは足ぶみをしない事になつてしまつた」からだ。この結論までの流れをたどっていきたい。

「何故(なぜ)かと云ふと」
「この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云ふ災ひがつゞいて起つた」(数年間にわたる災害による被害)
→「そこで洛中(らくちう)のさびれ方(かた)は一通りでない。舊記によると、佛像や佛具を打砕(うちくだ)いて、その丹(に)がついたり、金銀の箔(はく)がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪(たきぎ)の料(しろ)に賣つてゐたと云ふ事である」(被災により、京都の町も疲弊。信仰の対象まで日々の暮らしの糧に使用。信仰・精神・正義の崩壊)
→「洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てゝ顧(かへりみ)る者がなかつた」(羅生門の修理などにかまっていられない状況)
→「するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸(こり)が棲む。盗人(ぬすびと)が棲む」(荒れ果てた羅生門に、悪いヤツらが棲み付く。「狐狸」は人を騙(だま)す生き物。羅生門が、悪の棲み処(すみか)・世界になってしまった)
→「とうとうしまひには、引取り手のない死人を、この門へ持つて來て、棄てゝ行くと云ふ習慣さへ出來た」(死の世界になってしまった羅生門)
→「そこで、日の目が見えなくなると、誰でも氣味を惡るがつて、この門の近所へは足ぶみをしない事になつてしまつたのである」(夜の暗闇は、悪が活動する時間と空間。悪の世界・死の世界に足を踏み入れるものは誰もいない)

このように見てくると、羅生門という悪と死の世界に迷い込み、雨宿りという形で偶然足止めされてしまった下人という構図が浮かび上がる。このときの下人は、まだ悪でもないし死んでもいない。悪所に足を踏み入れてしまったただの青年だ。(往々にして若者は、そのような場所によく足を踏み入れてしまうものだが)
悪と死の世界に触れた青年がこのあとどうなるかに、物語の焦点は当てられることになる。

また、死の世界であるはずの羅生門には、もうひとり命を持つ者が潜んでいる。生者は「誰もいない」はずの場所にうごめく老婆だ。

 その代り又 鴉(からす)が何處(どこ)からか、たくさん集つて來た。晝間(ひるま)見ると、その鴉が何羽(なんば)となく輪を描いて高い鴟尾(しび)のまはりを啼(な)きながら、飛びまはつてゐる。殊に門の上の空が、夕燒であかくなる時には、それが胡麻(ごま)をまいたやうにはつきり見えた。鴉(からす)は、勿論、門の上にある死人(しにん)の肉を、啄みに來るのである。――尤も今日は、刻限(こくげん)が遲(おそ)いせいか、一羽も見えない。唯、所々、崩れかゝつた、さうしてその崩れ目に長い草のはへた石段の上に、鴉の糞(くそ)が、點々と白くこびりついてゐるのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に洗ひざらした紺の襖(あを)の尻を据ゑて、右の頬に出來た、大きな面皰(にきび)を氣にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めてゐるのである。

「日の目が見えなくなると、誰でも氣味を惡るがつて」、「足ぶみをしない事になつてしまつた」「この門の近所」に「代り」に来るのは、鴉ぐらいだ。奴らには目的がある。「死人(しにん)の肉」だ。「死人」に用がある存在というのも、なかなかの「悪」だ。ただ、鴉たちにとっては、生きるために必要なことなのだが。死から命を得るアイロニー。
こう見てくると、鴉たちと同じように「死人」に用がある老婆も、生きるためにそれが必要だから死体から毛を抜き、着物を奪う。老婆も鴉と同じ位置に存在している。

「鴉(からす)が何處(どこ)からか、たくさん集つて來た」
鴉は、それまでどこにいたのだろう。都の道に転がる死体か。今や「洛中のさびれ方」も、「一通りでない」。神も仏もない世界。信仰が失われた世界だ。「引取り手のない死人を、この門へ持つて來て、棄てゝ行くと云ふ習慣さへ出來た」羅生門。獲物は沢山転がっている。もちろん、羅生門の南側には、さらにすさまじい世界が広がっているだろう。
つまり、世の中すべてが悪なのだ。その中で、まだ悪に浸(つ)かっていないこの青年は、稀有な存在ということになる。これまでこの青年に対しては、ただ単に結局悪の世界へ「駆け下りた」存在とする意見があったが、そもそもこの時点までは「永年」まじめに「使われていた」(働いていた)のだった。まずそこを正しく評価すべきだ。これまでは悪に染まらなかった青年。悪と距離を置いていた青年が、物語の最後の場面でいよいよそちらに「駆け下り」る。(ただし、さらにその後の青年がどうなるのかについては、後述する)

「晝間(ひるま)見ると、その鴉が何羽(なんば)となく輪を描いて高い鴟尾(しび)のまはりを啼(な)きながら、飛びまはつてゐる」
鴉の甲高い鳴き声は、あたり一面に響き渡る。不吉さを感じさせ、何か良くないことが起こりそう・または既に起こったような気にさせられる。しかもそれが何羽もいれば、明らかにそこには死体が転がっていることをイメージさせるサイレンになる。その近くで殺人が行なわれたのではないかとか、また死体が持ち込まれたとかという想像したくもない想像が、人の脳裏に浮かぶだろう。たとえ「晝間」であっても、鴉とその声の不気味さは変わらない。
そもそも「黒」は、悪や死の象徴だ。それが「飛びまはつてゐる」からには、容易にはつかまえることができない。羅生門の付近は、地上だけでなく空にも悪がはびこっている。この世のすべてが悪なのだ。

「殊に門の上の空が、夕燒であかくなる時には、それが胡麻(ごま)をまいたやうにはつきり見えた」
夜の闇が近づく時間になると、いよいよ悪いヤツらが動き出す。その先導役が、鴉なのだろう。悪が「はつきり」と動き始めるのだ。

「――尤も今日は、刻限(こくげん)が遲(おそ)いせいか、一羽も見えない」
いつもであれば、鴉がたくさん飛び交う時間なのだが、「今日」は違う。「今日」は、特別な日なのだ。いつもと違うところには、何かが起こる。
「刻限(こくげん)が遲(おそ)いせいか」という保留は付けられているが、それでもやはり「一羽も見えない」というのは異常だ。死の世界に限りなく近いところに棲む鴉たちも、この日は羅生門に近づかなかった。これは、「誰もいない」ことを際立たせるとともに、より異常なことが行なわれることを暗示させる。

「唯、所々、崩れかゝつた、さうしてその崩れ目に長い草のはへた石段の上に、鴉の糞(くそ)が、點々と白くこびりついてゐるのが見える」
鴉の痕跡はあるが、その姿は全くないということは、あの鴉さえも何者かによって排除されてしまったかのように読める。すべての命が失われた設定のこの日。ふつうであれば、下人にも命の危険が迫るはずだが、この物語はそのようには進まない。

「下人は七段ある石段の一番上の段に洗ひざらした紺の襖(あを)の尻を据ゑて、右の頬に出來た、大きな面皰(にきび)を氣にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めてゐるのである」
先ほど述べた状況に対して、とてものんびりと構えている青年の様子。いつ、自分の身に危険が迫ってくるかもしれない状況なのに、「面皰(にきび)を氣にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めてゐる」。この青年は、さらに、「明日の暮らし」にも困った状態にある。この余裕はどこから来るのだろう。それについては、この物語りでは明かされない。若さゆえか。

若さと言えば、この下人は、「右の頬に」「大きな面皰(にきび)」ができている。これは、下人が若いことを示唆する。
また、下人がにきびを気にする場面がもう一度出て来るのだが、いずれも彼が何かを考えている様子を表す。下人が思案にふけるときの癖だ。

たまたま足留めされた羅生門で、老婆に出会い、下人はさまざまなことを考える。


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