芥川龍之介「羅生門」を読む8~「何をしてゐた。さあ何をしてゐた。云へ。云はぬと、これだぞよ。」

    そこで、下人は、兩足に力を入れて、いきなり、梯子(はしご)から上へ飛び上つた。さうして聖柄(ひぢりづか)の太刀に手をかけながら、大股(おおまた)に老婆の前へ歩みよつた。老婆が驚いたのは、云ふ迄もない。
 老婆は、一目下人を見ると、まるで弩(いしゆみ)にでも弾かれたやうに、飛び上つた。
「おのれ、どこへ行く。」
 下人は、老婆が屍骸(しがい)につまづきながら、慌(あは)てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵(のゝし)つた。老婆は、それでも下人をつきのけて行かうとする。下人は又、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は屍骸の中で、暫、無言のまゝ、つかみ合つた。しかし勝敗は、はじめから、わかつている。下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへねぢ倒した。丁度、鷄の脚のやうな、骨と皮ばかりの腕である。
「何をしてゐた。さあ何をしてゐた。云へ。云はぬと、これだぞよ。」
 下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀(たち)の鞘(さや)を拂(はら)つて、白い鋼(はがね)の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は默つてゐる。兩手をわなわなふるはせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球(がんきう)がまぶたの外へ出さうになる程、見開いて、唖のやうに執拗(しうね)く默つてゐる。これを見ると、下人は始(はじ)めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されてゐると云ふ事を意識した。さうして、この意識は、今まではげしく燃えてゐた憎惡の心を何時(いつ)の間にか冷ましてしまつた。後に殘つたのは、唯、或る仕事をして、それが圓滿(ゑんまん)に成就した時の、安らかな得意と滿足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し聲を柔らげてかう云つた。
「己は檢非違使(けびゐし)の廳の役人などではない。今し方この門の下を通りかゝつた旅の者だ。だからお前に繩をかけて、どうしようと云ふやうな事はない。唯、今時分、この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさへすればいいのだ。」
 すると、老婆は、見開いてゐた眼を、一層大きくして、ぢつとその下人の顏を見守つた。

(青空文庫より)

「何故老婆が死人の髮の毛を拔くかわから」ず、「合理的には、それを善惡の何れに片づけてよいか」分からなかった下人だったが、「この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髮の毛を拔くと云ふ事が、それ丈で既に許す可らざる惡であつた」。
善悪の合理的判断も無く、老婆の行為を悪と認定・処断する下人。
彼はいよいよ行動する。

ただし、ここで「作者」は注意深く保留を付ける。「勿論、下人は、さつき迄自分が、盗人になる氣でゐた事なぞは、とうに忘れてゐるのである」と。
下人自身、完全な善ではないのだ。その場・その時の感覚で、簡単に善にも悪にも変化する、頼りない存在だ。だから、この後彼がする行為は、善に擬態したものと批判されてもしょうがない。

「そこで、下人は、兩足に力を入れて、いきなり、梯子(はしご)から上へ飛び上つた。さうして聖柄(ひぢりづか)の太刀に手をかけながら、大股(おおまた)に老婆の前へ歩みよつた。老婆が驚いたのは、云ふ迄もない。」
この下人の行動・様子に、芝居がかっていると感じる人は多いだろう。まるで正義の使者のような下人。この時の下人は、自分に酔っていると言ってもいいほどだ。戯画的な下人の行動と、動画的な描写。

この部分を詳しく見たい。
「兩足に力を入れて」は、そうすることで一度足に力を溜める様子。「いきなり」は、老婆に素早く近づくことと、老婆に対応の時間を与えないことを表す。「梯子(はしご)から上へ飛び上つた」からは、空中に静止する下人の画像が目に浮かぶ。「聖柄(ひぢりづか)の太刀に手をかけながら」も同様だ。「大股(おおまた)に老婆の前へ歩みよつた」下人に、老婆は強い恐怖を感じただろう。

突然の下人の登場に驚く老婆。老婆にとってもここは、生きた人間のいない場所であるはずだったからだ。また、相手が何者か、まだ分からないからだ。

つい先ほどまでとはうってかわり下人がとても強気なのは、相手が自分よりも年老いた、また、力が弱い、老婆だからだろう。

「老婆は、一目下人を見ると、まるで弩(いしゆみ)にでも弾かれたやうに、飛び上つた。」
さすが、猿のような老婆だ。老婆ながらも機敏な動き。また、老婆の驚きの強さも表す。戯画的表現。

「おのれ、どこへ行く。」
正義が悪を追う言葉。この時下人は、自ら正義を体現した存在となっている。

「下人は、老婆が屍骸(しがい)につまづきながら、慌(あは)てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵(のゝし)つた。」
ジェリーを追うトムを想像する。あるいは、逃げ回るゴキブリを追うママ。身軽さでは、若い下人にはかなわない。

「老婆は、それでも下人をつきのけて行かうとする。下人は又、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は屍骸の中で、暫、無言のまゝ、つかみ合つた。」
ここも戯画的だ。2人の押し引きの様子が、それぞれの動作を描くことによってよくわかる 。 ここは2人が無言のまま掴み合っているので、その対決の様子に、より緊迫感が生まれる。2人がそれぞれ真剣に、自分の力を尽くして、相手と争っている様子。

「しかし勝敗は、はじめから、わかつている。」
勝てそうな相手だから、下人は戦ったとも言える。
この下人はなかなか慎重な男だ。梯子の途中で老婆の様子を見定め、自分が勝てると思った相手だからこそ相手に飛びかかり、ねじ伏せようとする。

「下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへねぢ倒した。丁度、鷄の脚のやうな、骨と皮ばかりの腕である。」
「老婆の腕」をつかむことで、その力の弱さと腕の細さを実感する下人。全く肉が付いていない腕は、老婆の貧しい栄養状態と、生活の困窮を表す。これでは、腕に力は入らない。生きることがやっとの状態だろう。
獣同士の争いならば、食べてもまずそうな老婆だ。だから、自分の命をつなぐための相手にはされないだろう。獣なら、補食の対象とはならない。

「何をしてゐた。さあ何をしてゐた。云へ。云はぬと、これだぞよ。」
版によっては、「さあ何をしてゐた。」がないものもある。これがある方が、より芝居がかっている印象が強くなる。
「これだぞよ」は、「ひどい目にあわせるぞ」の意。次に下人は、太刀を老婆に突き付ける。

考えてみると、この下人の問いかけはおかしい。下人は、老婆の髪の毛を抜くという行為を悪だと判断しだからこそ、 老婆に飛びかかったはずだ。それなのに、何をしていたのかと相手に問うのは不審だ。また、この下人の問いかけに対する答えとしては「この女から髪の毛を抜いていたのだ」、になる。
下人からの強い追求に、老婆は的確に答える。「この髪を抜いてかつらにしようと思った」と。 だからこの老婆は下人の問いかけの意味を正確に理解していることになる。下人の、何をしていたのだという問いかけは、女から髪の毛を抜くことによって、それをどうしようとしているのかという意味だった。つまりこの老婆は、下人の問いかけの意味をしっかり理解し、それに対して求められている答えを正確に相手に返すことができる人物であるということがわかる。骨と皮ばかりの腕の持ち主ではあるが、まだ頭はしっかり働いている。相手の質問の意図をしっかり理解し、答えを返すことができる老婆。

「下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀(たち)の鞘(さや)を拂(はら)つて、白い鋼(はがね)の色をその眼の前へつきつけた。」
女の顔を覗き込む老婆の行為は、呪術か何かの可能性もある。しかし下人は、そのようなことを気にしない・考えも及ばない。まっすぐ老婆に近づき、捕まえ、太刀を突きつける。 武器・力による制圧。
「眼の前」だと、あとひと突きで、老婆は簡単に死ぬ。銃口を額に付けられたのと同じ。老婆の生殺与奪の権は、完全に下人に握られた。

「けれども、老婆は默つてゐる。兩手をわなわなふるはせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球(がんきう)がまぶたの外へ出さうになる程、見開いて、唖のやうに執拗(しうね)く默つてゐる。」
あとひと突きされたら死ぬかもしれないのに、執念深く黙る老婆。力は弱く、怯(おび)えてはいるが、意外にしぶとい人だ。 自分を押さえつけている相手をしっかり確認し、その質問の意図を理解しようとしている。相手は何者なのか、どうして自分を押さえつけているのか、これから自分をどうしようと思っているのか。それらを老婆は必死に考えている。なぜなら少しでも対応を誤れば、即、自分は殺されるからだ。ここの描写も戯画的。

「これを見ると」以下の下人の心情は、次のように推移する。
「始(はじ)めて明白にこの老婆の生死が、全然(すべて・完全に)、自分の意志に支配されてゐると云ふ事を意識」
→「今まではげしく燃えてゐた憎惡の心を何時(いつ)の間にか冷ましてしまつた」
→「後に殘つたのは、唯、或る仕事をして、それが圓滿(ゑんまん)に成就した時の、安らかな得意と滿足とがあるばかりである」
老婆完全制圧の実感は、先ほどまで激しく燃えていたはずの悪に対する憎悪の熱を冷まし、自分の仕事がうまくいった得意な気持ちと満足感で満たされる。実に自分勝手な認識と満足感ということになる。自己満足による自己陶酔。相手に対する完全支配の認識が、自己の満足感につながり、悪への憎悪をあっという間に冷ましてしまうという心性の下人。
このように、下人の心はその時の感触と印象で簡単に変化してしまうのだ。
悪いことをしている悪い奴をやっつけるという正義感を持っていたはずの下人だったが、彼の正義感 はこのようにあっという間にどこかに消えてしまう程度・レベルのものだった。つまり、先ほどまで 下人が抱いていた正義感は、偽物だったということになる。彼は、真の正義感から、悪を懲らしめようと思っていたわけではない。善を所有し悪を支配する、という役を演じただけだ。
だから下人は戯画的人物なのだ。下人の行動や感情が戯画的に描かれるのはそのためだ。
下人の心は、その瞬間瞬間で、何かの感情に簡単に塗り替えられてしまう・支配されてしまう。
この後も下人の心は次々に推移する。彼の善悪は、本物ではないのだろう。下人は、完全に悪を憎んで悪を懲らしめようとしているわけではないし、善を貫徹しようと考えているわけでもない。悪への憎悪から善を行使しようと本当に思っている者が、老婆を取り押さえることを「ある仕事」とは言わないだろう。(「作者」は下人を代弁する)
彼は同様に、完全なる悪の道を進もうと考えるわけもない。

このように、下人の心は、その時その時の印象で簡単に変化してしまうものであるということを押さえておきたい。このことを見誤ると、物語の最終部の下人の心情や行動の意味を取り違えてしまうことになる。

「或る仕事をして、それが圓滿(ゑんまん)に成就した時の、安らかな得意と滿足と」で満たされた「下人は、老婆を見下しながら、少し聲を柔らげてかう云つた。」
「己は檢非違使(けびゐし)の廳の役人などではない。今し方この門の下を通りかゝつた旅の者だ。だからお前に繩をかけて、どうしようと云ふやうな事はない。唯、今時分、この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさへすればいいのだ。」
いかにも役者が言いそうなセリフだ。この下人はいつも芝居がかっていて、それが鼻につく。

「己は檢非違使(けびゐし)の廳の役人などではない。」
女の死骸から髪の毛を抜くという悪を行っていたお前を取り押さえたからといって、俺は、公の善の行使者というわけではないという意味。このセリフはまた、下人自身が自分を、「檢非違使(けびゐし)の廳の役人」として認識したことを表す。老婆から見れば自分は、検非違使と見えないこともないだろう。そのように下人は、自分を見ている。外側から見た自分の客観的な姿を、一瞬でもこのように認識していたということができる。

「今し方この門の下を通りかゝつた旅の者だ。」
これについては様々な考えが提示されている。私は、この下人の発言は、意外に正直・素直なものだと考える。なぜなら下人は4、5日前に主人から暇を出された。どこへ行くというあてもない。今日はたまたま通りかかったこの羅生門の下で、雨やみをしていただけだ。 従って、荒廃した都にいつまでもいる理由もないので、この下人は、羅生門から外へ出て、鄙(ひな)の世界へ行ってみようと考えたとしても不思議はない。むしろその方が自然だ。被災し、社会全体の混乱が続く都にいても、再就職は叶わない。であるならば、地方で生活しよう。まだ若い下人には、それは容易だろう。

「だからお前に繩をかけて、どうしようと云ふやうな事はない。」
お前を逮捕して、懲らしめてやろうと思っているわけではない。

「唯、今時分、この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさへすればいいのだ。」
これは、ただの好奇心だ。興味本位の質問と行動。 話が聞きたいだけならば、もみ合った太刀の刃をその目の前に突きつけたりする必要はない。下人は、考えも行動も オーバーなのだ。
また、下人は、初めは老婆に対して強く出て、後に少し声を和らげて、危害は加えないから心配せずにありのままを話せ、というテクニックを使っている。これは、相手から本当のことを聞き出す方法だ。だからこれは、老婆にとっては、まるで警察の取り調べのようだろう。

このことをさらに推し進めて考えてみると、下人は老婆が何をしていたのかを本当に知りたいわけではない。ただ相手の反応を見て楽しんでいるだけだ、と言っても過言ではない。 興味本位の自己満足。

だから下人は、老婆の答えに意味のある何かを期待しているわけではない。ただ、老婆が面白そうなことを言えばそれに反応するだけだ。退廃的とまては行かないが、表面的で軽い生き方。
もっとも、社会の状況が、それを 下人に強いているとも言える。

「すると、老婆は、見開いてゐた眼を、一層大きくして、ぢつとその下人の顏を見守つた。」
相手の男が何者なのかはまだ不明だが、とにかくこの場から何とか 逃げ延びる方法はないか、つまり 命をつなぐ方法はないかということを必死になって考えている老婆。
鼻先には、刃を突きつけられている。答える内容によっては、それでひと突きされてしまう。死ぬのは嫌だ。生きる方策を考えねばならぬ。

ところで、今回の話をもう一度振り返ると、そもそも真の善の所有者ではない下人には、老婆に襲いかかり、老婆を懲らしめようとする理由がない。彼は、羅生門の2階の広間で何やらおぞましい行為をしている老婆を見た後、ただ静かにその場を立ち去ればいいだけだった。それなのに、なぜ、あえて、自分の身の危険も顧みず、老婆に襲いかかったのか。結論から言うと、この時の下人は、暇だったのだ。無聊を慰める何かがないかと、思っていたのだ。
下人は、今、空腹だ。食べるものに困っている。明日の暮らしはとても成り立ちそうもない。その一方で下人は、暇を持て余している。今下人が羅生門に留まっているのもそのためだ。若者であれば、本当の目的地があれば、たとえ雨が強かろうと、そこへ向かって進むはずだ。下人には、この後行く場所もあてもない。目的地も目的も、彼は持っていない。下人はこの時、そのような状態だった。だから、ある意味、自分の無聊を慰めるために、あえて老婆に襲いかかったのだ。
このように考えてくると、この時の老婆は、下人の慰みものになったということになる。下人の暇つぶしの相手をさせられたのだ。これは、老婆側からすると、いい迷惑だ。年老いた自分にできる、生きるための方策は、死んだ女から髪を抜くことくらいだ。それなのに、生か死かという極限の状態にある自分の行為を、他者から見とがめられ、懲らしめられようとしている。しかし、老婆にとってそれは、命をつなぐ最後の手段だった。だから下人の、その瞬間で容易に変化してしまう偽物の正義感によって、老婆が懲らしめられるいわれはない。この物語における老婆と下人の存在のすれ違い・落差は、このようなところから生じている。老婆は真剣だ。自分の命をつなぐために、本気で髪の毛を抜いている。それに対して下人は、ただの暇つぶしだ。正義を履行しようと、本当に思っているわけではない。この落差が、老婆と下人のすれ違いを生んでいる。そうしてそれは、我々読者にも、うっすらと伝わってくる。
真剣な老婆と、いいかげんな下人。老婆にしてみれば、自分の命をいいかげんに扱われるのは、いい迷惑だ。
命のやり取りをする、緊迫した状況やその表現であるはずなのに、どこか漫画っぽい。下人が戯画的に感じられるのは、こういうところから生じているのだ。



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