参考になるかどうかわかりませんが2
前回の記事の連載になります。
わたしの転職体験と言いながら・・・・すいません。。わたしの就職体験にすり替えてしまいました。。
では、続きをやりたいと思います。
そんな大学4年生を過ごしていた為に「卒論」が全く進まなかった。。
これじゃ内定をもらっても「卒論」ができなくて留年したなんて言うのでは話にならんなぁ。。と思い7月8月の暑い日に卒論の8割を作成して、9月また就職活動をした。
相変わらずの状況は続くものの・・・とりあえず何とか某商社の「営業職」に内定はもらったものの・・・あまり嬉しくはなかったのを覚えている。
とりあえずは卒論もほぼ仕上げて、就職活動の行き先も決まったので、ちょっと安堵感があったし、親にこれで格好がついたと言う事なんだろう。。
今だったら、もう少し就職活動を水面下で続けていたかもしれないが。。
あの頃はまだまだ精神的にも弱かったので、あの嫌な思いをして「圧迫面接」など受けたくはないと言う思いと、もし、もう1社内定が出たら、どうやって決めようとかとにかく弱気な自分だったので、そのまま残りの日々は、学生時代のバイトを続けて、好きなミュージシャンのライブに行って、学校は単位をほとんど取得してしまったので行かなくていいので遊んでいた。
96年4月にその某商社の「営業職」に入るのだけど、「こんなに厳しいのか?」と思うくらい過酷に思ってしまったし、今は飲めるけど、酒もちょっとしか飲めなかった。。そして、すぐに吐いていた。。
ストレスでタバコを二箱、ひどい時は三箱・・・つまりは50本〜60本吸っていたことになるのだろうか・・・・良くない。。
そして、計算やら数字に弱すぎる自分には「営業職」として作成しなきゃいけない「見積書」が全くできなかった。急に上司が「後はお前が考えてやれ!」と言われて・・・全くわからないまま作成したせいで・・・会社の利益云々に及ばない事が発覚し、部長に怒鳴られたりした。。
副部長という人は朝しかいなくて、帰りは直帰してしまい、何をしているのかわからない人だったし、相談できる人は誰もいなかった。。
気がつけば、「俺はなんでここにいるんだろう。。」と思うようになったのは9月だった。。
10月になったら、とにかく体の不調が続いた。。
それもそうだ。。6月、7月なんて。。まともな時間に帰って来た事がなかったし、帰れなくて・・・部長が「おい、今日は俺の家に泊まっていけ。」と言う日があれば、ある時は課長が「俺のうちに泊まってけ」と。。いずれも終電がない時間だった。
そして、ある時は「倉庫の仕事を手伝え」と言われて、午前2時半に出勤して、倉庫にいた外人さん(イランとかそっち系の人が二人いたな。。)と一緒にカタコトの言葉とジェスチャーでコミュニケーションを取ったものだった。
それでも翌日は遅くまで仕事をしてて、要領も悪い事もあり、自分の仕事が片付かなかった。。
しかも休みは日曜日しかなかった。。そして、月初の月曜日は6時半から早朝会議があったので、始発電車に乗っていた。
そんな生活をしていたら、さすがの22歳でも「これは早死にするかもしれないな。。」と思ったほどだった。。
11月になって・・・自分はとうとう精神的にもボロボロになって、その商社を辞める事にした。その時も「辞めたらどうなるかわかるよな。」と総務に脅された。
要は次の会社に決まった時に辞めた職場に連絡が行き、色々と詮索が入るから覚悟しておけと言う話だったけど。
こっちは体がしんどい状況だったので、そんなことは「勝手にしろや。。」という思いだったので半分も聞ける状況ではなかった。。
とにかく、社会人1年生はボロボロになって終わった。。
転職先など決めていなかった。。とにかく日本の社会構造ってこんなもんなのか?と思ったし、だから、親父はあんなに偉そうに仕事をしていたのか?(モロに昭和の人だから)
1996年11月の事です。96年の11月は雨ばっかり降っていたような気がした。。。
とにかく体のメンテナンスとばかりに「整骨院」通いはしていた。。
続く・・・・
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