ヤクザと家族 The Family

泣いちゃったよ。号泣した。

ケーキの切れない非行少年たちを読んだり

プリズン・サークルという映画を観たりしていて

犯罪を犯してしまう人達が、なぜ、そこにたどり着いてしまうのか?

って事が、ほんの片鱗だと思うけど見えてきて

結局、生まれた瞬間は、誰しもが何も知らない赤ちゃんだった。

そこから、育っていく過程で

コミュニケーションとしての暴力があったり

自分の感情とか、要求の伝え方を学ぶという経験が欠如していたり

そういう、社会構造的な理由とか、

家族の中だけの問題とされてしまって

放置されてきた、育ちの過程の不完全さみたいなものが

影響しているんじゃないかと思ってしまう。


この映画の主人公の賢治だって

ただただ安心して、誰かに守られたかったんだろうし

自分の存在を認めてくれる場所として、

自分が抱える、悲しみとか怒りとか、孤独を共有してくれる人が、

柴崎という存在だった。ただ、それだけだったんじゃないかな。


私達が、働いて、いろんなことを考えて

家族を、子どもの将来をより良いものにしようともがいているのと

彼らが、彼らを受け入れてくれて

大事にしてくれた人や場所を、ただただ守りたいだけで

もがいているのは、同じだな。と思った。

その方法が、暴力であったりするのは、私たちには想像出来ない人生が

そこにあったって事の証明なんだとも思う。

そこには、親としての愛と子としての親への愛があるし

仲間や家族への愛が存在していると思った。

その愛は、一般社会的には受け入れられない形で表現されてしまってて

どうしても敬遠されがちで、見ないふりをしてしまうけど

私達が、子どもを想うように、彼らも彼らの子どもを想う。

自分の世界から遠く離れた異質な存在ではなく

この私たちの世界のすぐ隣にいる、同じ人間なんだってこと。

それを忘れてしまっているから

全くの他人が、誰かがやったことを誹謗中傷したり

興味本位で、ネットに情報を晒してしまったり

そういうことを簡単にできるようになってしまうんだ。


ネットの普及で、世界が広くなって、

たくさんの人と繋がれるようになったような勘違いをしているけど、

実際には、自分のいるほんの数キロとかの範囲の中で

生きている人のことすら、無視して生きていける世の中で

自分と関わりのない、他人の存在が、とてつもなく軽くなってしまって

こんなに簡単に、生活を破壊させてしまうって事に無頓着で

本当に、すごく当たり前の事だけど

そこに存在している人間は、この世界で生きていて

ここで生活して、生きていく存在なんだってことを

強く強く感じた映画だったなぁ。


映画館で、嗚咽を出さないようにするのに必死だったわ。。。


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