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ちょっとずつ全部のせ

なんだか、ありがたいなぁ〜🙏と拝みたくなる本だった。


この本では、AS(自閉症スペクトラム)とADH(不注意・多動)、LD(学習障害)の特性がちょっとずつ混ざっている人について書いてあった。

ASやADHのどちらかが分かりやすく特徴として出ないので、そういう人は時に発達障害と診断されなかったりするそう。
ただ、診断されないが故に、自分の特性を適切に理解できず(また、周りにも理解を得られず)に、日常生活で苦しい思いをする人が多いのだとか。


実際、わたしも、ASとADHの特性がどちらも当てはまるなぁ。と思っていたので、頷きながら読んだ。




漠然とした生きずらさがあり、
ここ半年の間に発達障害に行き当たったけれど(未診断)、

定型発達(多数派)でもなければ、非定型発達(少数派)でもないような感覚に、ずっと妙な歯がゆさがあった。

でも、こうして、グレーな人たちにスポットを当ててくれる人がいる。という事に、言いようのない救いを感じた。

この本の一番の感想はそれだと思う。


また、ASやADHの中には、「過剰適応」という、定型発達(多数派)の生活に、無理に適応してしまうケースも見られる(無理が過ぎると二次障害に苦しむ)とあり、この点からも、自分のどっちつかずな感覚が成仏した。


わたしは、AS(こだわり・対人関係の不得意さ)もあり、ADH(不注意・思いつきの突発的行動)もあり、過剰適応もしてしまう。

これらの特性がほんの少しずつ、
全部のせされているのだ。

(白か黒かの思考に陥りやすい人間としては、この「ほんのちょっとずつ全部のせ」の概念に触れられて、ほんのちょっとずつ全部のせの理解に至ることができた。)


ちなみに、この本を読み、これまでを振り返ってみると、自分の生きずらさは、己にちょっとあるAS味が管轄する"過剰適応"によるストレスがかなりの割合を占めていたのでは?という気がした。

社会への適応(理想)に過剰なこだわりを持ち、そこから外れることが不快で我慢できない。(でもちょっとずつある特性からそれをやり遂げる事が困難)


とすると、そのこだわりを、他のものへ向けられたなら、少し楽には生きていけるのではないか?と思った。

そういえば、この本にも、「ASのこだわりは総量が決まっていて、どこか別のものに興味がうつれば、元の興味対象へのこだわりは薄れる。」とあった。


こだわりがコントロールできるものなのかは謎だけれども、理想への過剰適応が自分にとってプラスに働かない事に納得がいけば、興味(こだわり)は自然と移っていくものだと。。信じたい。。w



ちなみに、自閉症の子のエピソードが載せられていて、「お母さん、なにも話さないで見ていてくれるのも『好き』っていうことなんだよ」 という一文に、激しく同意してなんだか泣きそうになってしまった。





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