「ヴィトゲンシュタインの愛人」、世界そのもの、その入り口の一歩手前に存置された物語

『ウィトゲンシュタインの愛人』デイヴィッド・マークソン 著 木原善彦
https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336066572/  

「ヴィトゲンシュタインの愛人」はヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の世界観を人間が生きた場合の痕跡=散文の趣をみせる。

フレーズのみ一人歩きする「語りえぬものについては沈黙するしかない」と「世界はそこで起きることのすべてだ」のあいだに生起した持続である、とするらしい。

本当だろうか。

「論理哲学論考」から気に入ったフレーズのみを取り出し、「感情論理」によって編集することによって出現した、終わりまで持続する世界としての散文=人間ではないだろうか。
断片そのもの、そして600を越える断片を接続するのは、芸術や神話、そして感情たち。
仏教哲学を参照するまでもなく、感情とはことごとく断片であり、断片のまま関係妄想的に相互接続する性質を持つ。
接続が混線すれば、時系列は、そして時の蓄積は曖昧になる。いま・ここ・私の見当識も揺らぐ。私に息子はいただろうか、私の年齢は性別は今はどこか。

輪郭の揺らいで複数化した固有名詞は掛詞よろしく多重露光し、「まとも」な見当識や常識の持ち主=読者からみればユーモアとも映るだろう。捨て置かれた車を乗り回せば、犯罪と映ることになる。廃れた美術館内の絵画を燃やして暖をとることは犯罪であり、さらには廃仏毀釈の意味合いも帯びるだろう。
人間の文化はことごとく燃えあがる。芸術も宗教も建築も。
記憶も燃える。燃え、灰となって残される。
限りなく軽くなったそれら残骸を後生大事に拾い集め、スクラップブックに貼り付けていく。
残骸の貼り付けられて厚みを得た誰かのスクラップブックを拾った者は、意味など辿れないながら読み始めてしまった。
スクラップブックの始まりと終わりは、何かが貼り付けられる以前、原本のスクラップブックの厚さが決定する。白紙の尽きるまで貼り付けたならそこで終わりだ。それで終わる。後からスクラップブックを読み進めた人間は「そこが」終わりなのだと読み取る。この誤差。誤差の意味化としての誤読こそが意味内容なのだろう。
意味が読み取れなければ、自動的に多くの人間は不安に襲われる。
不安を取り除くために掴む藁とは物語である。
ところで「ヴィトゲンシュタインの愛人」は物語だろうか?

スクラップブックを「読む」とは、一体どういう事態だったろう。
本や小説を読むこととはどう異なるか。物語を読むのとは何が違うのか。
読むことが、誤読を解消することであるのならば。
誤読の解消とは人間の消滅を意味するだろう。
誤解の余地、妄念の観念妄想が切断され、あるべき物事がもとあった場所へと還っていく。
何かと何かを接続する関係概念、受動も能動も使役も消える。
残された中動態の舞台は、人間ではなく世界そのものとなる。

「ヴィトゲンシュタインの愛人」とは、世界そのもの、その入り口の一歩手前に存置された物語だと読み終えた。

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