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そういえばあの花屋潰れたのね、って母が言った

ハンドクリームは手首から爪の間までしっかりと塗る。壊れかけのイヤホンで音を聞く。耳を埋める。冷たい布団が温かくなった瞬間がわからないという不幸。置き忘れたお菓子はなくなっていた。帰り道すれ違う人が怖い。街灯に照らされた影が丸々としていて冬を感じる。マスクから出てきた息が空へ消えていく白。疲労を自覚すまいと目を逸らす。怖がりのあの子はいつの間にか強くなっていたみたいだよ、カンパネルラは死んだのにザネリは生きてる。ザネリが生きてる。

こんな中途半端に発展した街じゃあ中途半端な星しか見えなくて、人工物に殺された星の光を思った。彼はずっと見栄を張っているように見えたし、彼女はずっと強がっているようにも見えた。自身の死を語る老人はテレビの中で感謝の言葉を述べていた。即席の味は即席でしかなくて、母の料理の安心の味は手を惜しまないと味わえないものだと悟った。一味を五振り。ハートのマークをポツポツと押す。本が読めない。資格の冊子を持ち帰ってみたりしたけれどいつ読むんだろう。花が育てられない。そういえばあの花屋潰れたのね、って母が言った。パンが作れない。大量に売られているメーカーのパンが食べられなくなった。あの頃を思い出してしまう。

冷たい手のひらでまぶたを覆って。いつまでも目薬が上手くさせないのって泣いた私を抱きしめて。唇噛んじゃう癖治んないよ、薬でいくら安心できても治んないよ、ごめんね。ごめんねおかあさんこんなふうになってしまったよあなたが期待していた私にはなれなかったみたいだよ、ごめんね。

抱きしめてくれないなら殺してほしかった。温めてくれないなら、大切にしてくれないなら、守ってくれないなら、救ってくれないなら殺してほしかった。

どうかわるい夢ばかりみないように。これはささやかな祈り。

車の中から見た月も、変わってしまった生活習慣も、いつも綺麗なままだった水槽も、やさしい言葉をかけてあげるべきだったあの人も、黄色いカーテンも、人形が入った箱も、寝室のテレビも、浅瀬の私と砂浜で笑う祖母も、みんな過去に置いてきちゃった。

どんなに悲しくてもどんなに死にたくてもどんなに辞めたくてもどんなに苦しくても涙が出たとしても朝が来てしまう。苦しいだけの朝が来てしまう。私たちは考え続けなければいけない。そのための脳みそを持っている。持たされてしまったのだから。

妹がね、「私は人生に一度でいいから頑張ったって誇れる経験が欲しい」って受験勉強をしているの。私は受験勉強が苦しくて苦しくて仕方がなかった人間だったからそれが羨ましいような、痛ましいような、そんな気持ちになってしまった。目的が結果にすり変わってしまった私は、同じ過ちを妹が犯さないように願うだけ。そしてあなたがそれを諦めても辞めたくなっても誰もあなたの事を責めたりしないと言い聞かせてあげるだけ。

おやすみなさい。

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