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ちはやふる44巻にかこつけて~歌人『大納言公任』エピソードまとめ*前編😶

千早と詩暢のクイーン戦、第二試合目。
詩暢を理解し、かつ崩していく為に、千早は歌人の関係性を利用し撹乱します。この巻は、歌人のエピソードを掘り下げて、いくらでも語れそうな一冊になってます。

というわけで今回は、ちはやふる44巻を入り口として、古典文献にみられる大納言公任に焦点を当て、まとめてみます。

まず、ちはやふる15巻、富士崎との試合での運命戦の局面。太一が『ゆら』を持ち、エロムが公任の『たき』を持っています。
それを見守る奏ちゃんに
「(たきの)『た』と『な』をしつこく技巧的に並べた歌より(ゆらの方が)ずっと好き」
と言われてしまっています。公任しょんぼり…

が、44巻にてリベンジ!公任のターンがやって来ました!

肉まん君の受験勉強のシーン、大鏡の音読を家庭教師に誉められてます。
ここは公任のイキり通り名?「三船の才」のくだりですね。漢詩、管弦、和歌とどの船に乗りますか?と問われて、どれも得意なので選べないんですけど?と、もったいぶった態度!結局は和歌を選び、作った和歌は絶賛されるのですが、それで満足するにとどまらず「漢詩を選んでおけばよかった」なんて後悔してるんですよね。漢詩で出来を誉められたのならキャリアにプラスになったのに、と。←流石、言うことが可愛くないですね🤣

「すげーよ公任さん。大鏡でも百人一首でも残ってるよ」
肉まん君にそういわれてる公任ですが、さらに言えば「枕草子」にも「紫式部日記」にも出てくるんですよね、公任。

『複数の線』が見えてくるとがぜん、面白くなってきませんか?あーこの人知ってるーって、キャラにどんどん親しみがでてきませんか?情報量が多いだけでなく、キャラが濃いんですよ、公任ほんと公任。

【清少納言と公任】

さて、『たき』が詩暢に取られた後、清少納言の『よをこめて』は千早が取ります。

「読まれるならおちょくり相手の公任さんのあとがいいなーって」

この清少納言のセリフは古典文献でいうと、どのへんの事を言ってるんでしょうね?

枕草子では、清少納言が公任から「すこし春あるここちこそすれ」に上の句をつけよ、と試されるような手紙をもらう、というエピソードがあります。これに清少納言は「空寒み花にまがへて散る雪に」と返し、大絶賛されます。

空寒み花にまがへて散る雪に すこし春ある心地こそすれ

~公任卿の句は「白楽天」の詩集を踏んでいられる。「山寒ウシテ春有ルコト少シ」というのである。私はそれを受けて同じく「雲冷ヤカニシテ多ク雪ヲ飛バス」の前句から「空寒み花にまがへて散る雪に」としたのだ。~
※引用[むかし・あけぼの/田辺聖子]

清少納言、和歌を読むのは苦手だと渋る人なのですが、こういうのは大得意なんですよね。
現代っぽく例えて言うなら、そのシチュエーションに合う英語の歌をチョイスして、洒落た言い回しで和訳する、みたいな仕事。オリジナル創作よりもパロディ気質の人、と思うと親しみがわきますね。

また枕草子の似たようなエピソードとして、頭の中将斉信から「蘭省ノ花ノ時、錦帳ノ下」に下の句を、と試され「草の庵をたれかたづねん」と消し炭で書いた、というのがあります。この下の句、公任の歌から取ってるんですね。公任の歌もトーゼン知ってる、と。
頭の回転を競うようなやり取りを、日常的にする間柄だったんでしょうね。

【人生のスタートでは、道長より上のつもりだった公任】

道長と公任、同い年なんですよね。そう思って二人を比べながら見ると、なかなかに面白い。

幼少期の公任はそれこそ『神童』とちやほやされ、元服の儀式は 皇族のような華やかさだったそうです。
藤原兼家は「家の子息たちは公任卿の影も踏めない」と嘆き、道長の兄たちは黙ってしまうのですが、ただ一人、末っ子の道長だけ「影どころか顔を踏んでやる」と息巻くんですね。道長の気概を感じると共に、歴史を知る私たちから見ると、予言めいたものも感じます。

【失言の貴公子…】

家柄も良く、自分の才にも自信のあった公任。姉が立后された時、詮子女御(後の一条天皇の母、道長の姉)に
「こちらの女御はいつ立后されるのですか?」
なんて言ってしまいます。后は定員一名なので、なれるわけないのをわざと言うわけですよ。性格悪いですね。でも姉后は皇子を産むにいたらず、数年後詮子女御側の人に「素腹の后はお元気?」なんて言い返されちゃうんです。大ブーメラン!頭の回転が早く、思い付いた事を言いたい性質なんだろうけど、政治家としてはそんな恨みを買う事をわざわざ言うのはまずいだろう、とツッコミたくなるエピソードですね。(そこが好きです🤣)

さて、基本的に后は定員一名、と言いましたが、そこをねじ曲げて、定子がいるにもかかわらず(皇子も産んでいるのに!)、自分の娘彰子を中宮にしたのが道長なんですよね。そして末っ子で期待されてなかった道長が権力を握れたのは、一条天皇の母である姉のお陰。もし公任の姉が世継ぎの皇子を産んでいたら、道長のポジションに公任がいたのでしょうか?公任自身もそう思うことはあったでしょう。

が、時流が変わったのを認め、公任は道長に服従し、能吏として活躍しました。道長の中の関白家(定子)への仕打ちを見れば、それが賢い道かと思います。そして文化面では、大貢献しました。

滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
(昔あったという、見事な滝の流れる音は もう聞こえないけれど、名前だけは残って 今も語りつがれている)

政治家としては道長の下で甘んじなくてはならなくとも、文芸で後世に名を残した、それが公任。百人一首を選定した定家は、公任自身を『たき』の歌に重ね合わせるように見ていたのではないでしょうか?公任の本人像に重なるような歌を選んだ、と考えると「技巧的なだけの歌」という評価も、最早誉め言葉に聞こえてきますね。

さて、話が長くなってしまったので、一旦切りますね。次回は紫式部と公任についてまとめたいです。
まあ、公紫は『うた恋い。』読んでください、の一言につきるのですが。古典文献のどの部分がマンガとしてデフォルメされているのか?ということも触れていきたいです。

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