変わる彼女と、変わらぬ世界
音が鳴っていた。
来る日も来る日も毎日ピアノを弾いていたあの子の事を、今でもたまに思い出す。この学校に勤め始めた最初の年で、朝の早い時間帯、まだ生徒はほとんど登校してこないような時間にいつも音楽室にいた彼女のことだ。
吹奏楽部の朝練が始まる前、なんの部活にも所属していなかったあの子にとってはその時間だけが好きにピアノを使える時間だったのだろう、誰よりも早く学校に来て、誰に聞かせるわけでもなく、ただ風の音や雨の音、木々の音や、廊下から聞こえる誰かの足音、そんな何気ない音を88個の鍵盤で鳴らしていた。
特に目立つような生徒でもなく、学業や人間関係で何かしらの問題を起こすような生徒でもなかったから、演奏している姿を見たときは驚いた気がする。最初は物珍しさからその姿を見ていたものの、次第に興味も薄くなり、あまり気に留めなくなっていった。
そんな彼女と初めて話したのは、初めて彼女の演奏を見たときから、半年以上経った、寒い日だった。
その日は11月半ばの、ひどく寒い日のことだった。例年と異なり、急に気温が下がり始めたので、暖房を入れましょうと、職員会議で決まった日の翌日のこと。各教室の暖房のスイッチをつけて回っていた時に、いつもと変わらずにピアノを弾いてる彼女を見つけた。寒さで頬を赤らめながら、どこか寒さも楽しんでいるかのように、音で遊んでいる姿をみて思わず声をかけてしまった。
いきなり声をかけられた動揺なのか、それとも演奏を聞かれていたことの気恥ずかしさからなのか、少し上ずった声でたどたどしく返事をする彼女は、やっぱり普通のどこにでもいる子という印象でしかなかった。あまり長話するのも悪いと思って、部屋を出ようとした時に、ついでだからと、なんで朝早くに学校に来てまでピアノを弾いてるのか聞いてみた。
彼女は少し時間をおいてから、
「特に理由なんかないですよ。最初はただ単に朝早く学校につきすぎちゃったから、やってみただけなんですけど、思ったよりも楽しくて。それだけです。」
そう答えた。
それだけで、毎日続けるものなのかと疑問に思ったものの、これ以上話すのも悪いと思って、音楽室を後にしようとした時、
「あ、でも、なんとなくですけど、雨の音とか風の音とか、そういうのを自分なりにピアノで鳴らすのは、自分だけの世界を作るみたいで好きです。」
彼女とちゃんと話したのはこれっきりだったが、それ以降も、毎朝音楽室からは、変わらずピアノの音が聞こえてきて、それをどこか楽しみにする自分もいた。
その後、彼女は卒業してしまったから、毎朝聴こえてくるピアノの音はなくなってしまった。
彼女が卒業してすぐは、どことなく寂しい感じもしたものの、月日が経つにつれそんな感傷もどこかへ消えてしまい、すぐにいつも通りの生活に戻り、彼女のことを思い出すことはほとんどなくなった。
そんな日々を送って数年が経った日、教育実習生が来るということで、その人の情報を教えてもらった。写真をみて、それが彼女だと気づくのに少し時間がかかった。大学生になって色々経験したからだろうか、あの頃の面影は少し残っているものの、どこか垢ぬけた感じで随分と綺麗になっていた。
彼女がまだ在学していたころは、結局あの日以外でちゃんと話すことはなかったから、あまり関わりのある生徒ではなかったものの、かつての教え子が自分と同じ先生を目指していることが、どこか嬉しくもあると同時に、その変化にどこか寂しさも覚えてしまった。
そんな気持ちを抱えながら、彼女の教育実習の日程は滞りなく進み、もうそろそろ終わりの時期に近づくころ、いつもと同じように朝の校内の見回りをしていると、ふと懐かしい感覚に襲われた。なぜだろうと思いながら、見回りを続けると、ある教室の前で足が止まってしまった。
誰がピアノを弾いているのかはすぐに分かった。そこからは、あの日と変わらない、
懐かしい音が鳴っていた。
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