見出し画像

女三宮のため息

 夕方の勤行でなむなむと唱えていると、殿がいらっしゃいました。正直、うっとおしい……と思ってしまいました。今までは私のことなんて馬鹿にして、ああせいこうせいやれみっともないもう少しご身分にふさわしい佇まいを身に付けろ、とうるさいことこの上なかったのに、出家したとたんに「世を捨てたのは私のことが嫌いになったからか」とめそめそ涙声でからんでくるし、女房のいない時などは「こんなおじいさんに比べたら、それは柏木の若い体の方がよかっただろう、自分がさっさと身を引いてあなたをくれてやっておけば、柏木も死なずにすんだし、あなたも幸せになれたかもしれない」など私の手をさすりながら嫌味を言ってくるからです。

 ここではっきりさせておきたいのですが、私は殿も柏木のことも、どちらも好きではありません。お父様が、そなたの将来が心配だからどうしても、と泣いて請うので仕方なく殿のもとに輿入れしてきましたが、初めて殿のお顔を見た時に思ったことは、うわ、おじいちゃんやん! ということでした。だってそうでしょう? 私はその時14歳で、殿は40歳。どう考えても年が離れすぎていて、素敵、とか頼もしいわ、とかいう言葉はまったく思いつきませんでした。今だって中2の女子が40歳の中年男性教師に恋心を抱くことはまずないでしょう? 同級生の間で「なにあのキモイおっさんウケる!」と言って笑い転げるのが関の山ではないでしょうか。

 え? 殿も私のことを「才気のかけらもない」と悪く言っていたって? それはそうですよね。14歳の女子が、40歳のおじさんと話が合うはずがありません。生返事で「へーそーなんだー」ばかりを連発していたので、「こいつあほか」と思われていたのでしょう。でも本当に、年寄りから昔話をされてもちっとも面白くなくないですか? 知らんがな、って思いますよね?

 でもまあ、殿は女慣れしているし、年の功もあってやさしいし、おじいさんとセックスするのは心からキモイ……と思いましたがほかにたくさん女性もいるから回数もそれほど多くないし、なんとか我慢できたのです。

 問題は柏木のほうです(もう呼び捨てにします)。
 殿がキモイおっさんなら、柏木はヤバいストーカーです。中年男性教師は「なにあのキモイおっさんウケる!」と笑いにできますが、ストーカーは笑えません。今なら警察に相談して接近禁止命令を出してもらう一択です。でも、残念ながら私たちの時代にはそんな法律はありません。油断していた私も悪い、と言われたらぐうの音も出ませんが、でもまさか、手紙に返事もしていない人が急に寝所に忍び入ってくるとは思いませんよね? あなただって夏の暑い日、窓を開けたままで寝たことがあると思います。そこへストーカーが入ってきてレイプされたら、悪いのはどっちなのか、ということです。

 柏木は「怪しいものではありません」と言いながら入ってきました。うわ、こいつやべえやつだ(怪しいものではありません、という人くらい怪しいものはありません)、例のストーカーだ、と私は思ったので、身を守るために身を任せたのです。逆上したストーカーに、首を絞められて殺されたり、誘拐されたりするよりましだ、と思ったからです。

 でもそれが間違いでした。ストーカーにははっきりNOと言わないと、俺ってもしかして好かれてる? と勘違いされてしまうのです。柏木はそれからも何度かやってきました。執着心の強いストーカーらしくねちねちしているし何回もしようとするし、ほとほとうんざりでした。そんな時に「やっぱり若い体がいいわ」なんて思うはずもありません。殿も柏木も、男性はセックスのことばかりに比重を置きすぎです。からだの良し悪しで気持ちが決まるとも思っているのでしょうか。

 というわけで、柏木が「もう死ぬかもしれない」と文をよこした時、実は私はほっとしてしまったんです。死にゆく者に対してひどい仕打ちだ? ならば好きでもない男から何回も蹂躙された私の気持ちはどうなるのでしょうか? 『もう死んでいる十二人の女たちと』(パク・ソルメ著)では、強姦されて殺された女たちが、死後の世界で犯人を改めて殺し直しますよね、人によっては何回も。強姦って、それくらい罪の重いものですよね。強姦男が死ぬと聞いて、よかった、これでもうここに来ることもないって思うのって当たり前ではないでしょうか。

 唯一の誤算は、強姦男の子どもを身ごもってしまったことです。でもそれも、もう悔いても仕方のないことです。それに産後の肥立ちが悪くて臥せっていたおかげで出家できたのですから、もしかしたら子どもには感謝しなければならないのかもしれません。

 そう、私は出家した今がいちばん幸せなのです。キモいおっさんにもヤバいストーカーにも苦しまされることなく、静かになむなむ唱えていれば日が暮れていきます。幸い、お父様が遺産をたくさんくださったし、二品の宮としての収入もあり生活には困りません。

 唯一心配しているのは子どもの薫のことですが、今のところはまだ幼く、出生について何の疑問も持っていないようです。元服して殿上に上がるようになれば、「光る君にまるで似ていらっしゃらない……ねえ、あの方に似ていない?」などいう噂を耳にして苦しむ時が来るのかもしれません。ごめんね、と思います。思いますが、でも、実は私、薫のことも大してかわいいと思えないのです。だってどうしてもヤバいストーカーのことを思い出してしまうから。

 私、ひどい母親ですか? 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?