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【連載小説】あなたに出逢いたかった #50 最終話

ドアを開けて聴こえてきたのはショパンだった。
懐かしい旋律に思わず立ち止まり目を閉じる。

梨沙の瞼の裏に浮かんだのは、幼い頃住んでいたマンションのリビング。4階角部屋、南向きで日当たりが良かった。
ソファで絵を描いていると、その隣で遼太郎が左手で梨沙を抱え、右手で頬杖を付いてピアノ曲に耳を傾けていた。あの時遼太郎が着ていた白いセーターのふんわりとした感触も、匂いも息遣いも、どこか寂しげだった遠い目も、全てはっきりと思い出せる。
今ならその目に何が映っていたのかも、わかる。

目を開け中へ歩み進めると、グランドピアノに向かう稜央の姿が見えた。梨沙に気がつくと演奏を止め、立ち上がった。

「梨沙…久しぶり」

梨沙ははにかんで小さく会釈をした。彼女は初めて出会ったベルリンでも、こんな風にはにかんでいたな、と稜央は思い出す。
あれからもう季節を一巡りした。あっという間に。

「日本には…いつまでいるの?」
「夏休みの間は。8月の終わりに帰る予定」
「そっか…。父さんと会うのも、久しぶり?」
「ううん…年末に2人で旅行に行ったの。セイシェル諸島。2週間」
「セイシェル諸島…?」
「うん。私が旅行に行きたいって言ったらパパが "のんびり出来るところがいいな" って言うからね、同級生にも相談して私が提案したの。インド洋にあってね。日本人の観光客がほとんどいないのよ。ビーチも全然ゴミゴミしていなくて。お陰で本当にのんびりできて、パパも喜んでた」
「へぇ…ビーチ。泳いだりするんだ…」

梨沙は首を横に振った。

「私は泳げないから、海は見る専。パパはちょっと海に入ることもあったけど。私は日焼けするのも嫌だし、基本的にはコテージから海を眺めながら絵を描いたり、パパはデッキで本を読んだり、波の音を聴きながら一緒にお昼寝したり、夕方になったら砂浜を散歩したり、夜はちょっとだけお酒を飲ませてもらったり。すごく楽しかった」
「そうなんだ…」

オフショルの黒いワンピース、青い蝶のTatooを覗かせている。パパの傷跡と同じ場所に入れたの、わかるでしょ?といつか彼女は言った。

梨沙は傍らにあった椅子に腰掛けた。稜央もピアノの前に座り直す。

「それより今日は無理言ってごめんなさい。共作したいだなんて」
「いや、いいんだ。せっかく梨沙の一時帰国のタイミングと合ったことだし」
「入ってきた時弾いていたの、ショパンだよね。途端に思い出したもん、子供の頃のこと」
「そっか…。ショパンは俺にとっても忘れ形見みたいなものなんだ」

稜央は以前、遼太郎に招待されて訪れたワルシャワのことを梨沙に話した。娘をベルリンに置いてきたから、電話口で泣き叫ばれてさ…とあの時遼太郎は話していて、それは梨沙のことだったんだな、と言うと彼女はアハハ、と笑った。

「私いつでも、パパがいないと機嫌がすっごく悪くて。ママは大変だったと思う」
「今でもそうなんでしょ?」

やだぁ、と梨沙はまた笑った。「今もそうだったら単身ドイツで暮らせないよ」

「成長したってことかな。あ、大人になった、と言った方がいいのか」
「どっちでも」
「梨沙ももうすぐ二十歳だもんな…」

梨沙はトートバックの中から薄手のカーディガンを取り出し、羽織った。室内は冷房がそこそこ効いている。更にタブレットを取り出し、ペンを構えた。

「寒い?」
「ううん、大丈夫」
「じゃあ…早速」

稜央は咳払いを一つするとスマホの録画をセットし、静かに鍵盤に指を置いて静かにイントロを引き出した。梨沙から依頼を受けて稜央が作った曲だ。

梨沙は稜央の指運びを眺めてペンを動かし、時折目を閉じ聴き入った。

稜央の奏でるメロディは空であり、荒涼とした大地であった。時に広大な草原に流れる小川だった。
音に父性を託し、梨沙はそれを感じ取った。

それぞれの脳裏に浮かぶそれぞれの情景には、共通する人がいる。
不思議なものだ。



「うわ…これ、どこ? 舞台…」

稜央が目にしたのは、藍色の中に白い花が咲き乱れる花畑の絵。
その中央にポツンと置かれたグランドピアノに向かう、稜央。ピアノの屋根に1羽の青い蝶が止まっている。

稜央がピアノを弾いている間梨沙が描いたワンカット。

「タブレットで描いているからワンカットだけど、これは地平線も見えるような広大な花畑なの。PCの画面で細部まで描けば、もっと綺麗な絵になると思う。あとは動きを付けて…」

梨沙はそう言って、ふふふと微笑んだ。

「稜央さんが作った曲、私のイメージにピッタリだった。さすがだね。抽象的な私の言葉を的確に把握して、音にしてくれた」

稜央は恥ずかしそうに鼻の頭を掻きながら、梨沙のタブレットを更に覗き込んだ。

「青い蝶は…梨沙のTatooと同じだね…。あ、いや。これは梨沙自身か?」
「さあね」
「以前、虫籠の話をしただろう」

その言葉に今度は梨沙が照れくさくなり目を逸らした。

「さっきの話だと…まだ籠から飛び出すことは出来てないみたいだけど…」
「相変わらずパパと全然話してないの?」
「…してない。だってさ…」
「パパ、寂しがってるよ」
「えっ?」

梨沙は立ち上がり、後ろ手を組んで窓辺に寄った。午後の陽射しが梨沙の白い肌に眩しく反射する。

「それ…父さんが本当にそんな事言ってるの?」
「私、稜央さんと会う時は毎回、ちゃんとパパに “会ってくるね” って事前に伝えてるの。そうすると後で “あいつ、どうしてた?” っていっつも自分から訊くよ。“自分で会って確かめたらいいじゃない” って言うと、“あいつが会いたがらないから” って」
「だって俺と会うと、その…どうしたってうちの母親のこと思い出すからって…。それってつらいと思うんだよね。梨沙のお母さんのことがあるじゃないか」
「うちのママは大丈夫。変なところで根性あるから。それより…」
「それより…何?」

梨沙は再び椅子に腰掛け、わざと首を傾げてクスっと微笑んだ。

「それって素敵な話じゃない? もうすぐ40年でしょ? パパは桜子さんのことを忘れられない。桜子さんもなんでしょ?」
「それは…」
「パパはあれから道場に通って弓を引き続けてる。きっとあの頃のことも思い出してる。夫婦でもないのにそんなに長いこと続く愛なんて、素敵じゃない」
「…本気で言ってるの?」

梨沙は窓の外の明るい庭に目をやり、ひとつ大きく深呼吸した。その目はどこか寂し気で、諦めたような、複雑な翳りを帯びていた。

「パパさ、次にお祖父ちゃんお祖母ちゃんに会う時は死に際かもなって、冗談とも本気ともつかないこと言ってるんだけど、稜央さんまでそんな風になったら悲しくない?」
「…」
「パパは “あいつ次第だからな” って言ってるよ。パパの方から会いたいって言えないのもかわいそうだけど」
「…そしたら…今度梨沙が連れて来てよ」

稜央がそう言うと梨沙はすぐに「嫌よ」と唇を尖らせた。

「どうして?」
「2人の間に入りたくない。何となく。自分で言って。私の知らない所で会ったらいいわ。後で私、パパに訊くから。どうだった? って」

2人は兄妹だけれど家族なわけではない。梨沙は3人で会うことに対して強い抵抗感を覚えるのだった。
一生敵わない相手をそこに感じるのが、まだつらい。年齢的に大人になったと言ったって、所詮未熟なのだ。
梨沙はそのジレンマとずっと闘っている。
だから強がらなくてはいけない時もある。

「私の話に戻すとね、もう虫籠なんて存在しないのよ」
「えっ?」
「私が今居る場所は果てしない、地平線も見えるほど果てしない花畑なの。虫籠と真逆の世界なのよ。太陽が昇って沈んで、月が顔を出して、星が照らして、風も吹く。素晴らしい場所なの」
「あ…それがこの絵の…?」

梨沙は微笑みながら黙って頷いた。

「梨沙…本当にそれで…いいの?」

その言葉に稜央を見た彼女の目は、切なく細められた。小さく息をつくと再び立ち上がって窓辺に寄り、降り注ぐ夏の日差しを受けて大きく一つ伸びをし、

「いいのよ。誰が何と言おうと」

こちらに背を向けたままそう言った。

「生まれ変わっても私はまたパパに出逢うの。今度は気兼ねなく、ちゃんと恋人になりたいな。パパにそう言ったら呆れられちゃったけど」
「梨沙…」
「ね、課題以外にもリクエストしていい? 『Waltz for Debby』を弾いてよ」
「Waltz for Debby? いいけど」
「あと稜央さんの十八番の『亜麻色の髪の少女』。なんかね、優しい曲が聴きたい」

稜央は梨沙のリクエスト通りに弾いて聴かせた。椅子に座り、目を閉じて聴き入るそのまぶたから涙が溢れるのが見えても、稜央は手を止めずに弾き続けた。
いつか父に、安らぎを与えたいと自分が弾き、録音して送った曲たち。
梨沙も幼い頃、それを聴いていた。彼のそばで。

「いけない、こっちの手が止まっちゃってた」

梨沙は指で涙を拭っておどけた。

「録音、上手くいってそう?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ後でアップしてもらえれば、蓮が弦を重ねて、私がアニメーションを調整するのを並行して行うわ」
「蓮も今日、一緒に参加してくれたら良かったのに」
「いいのよアイツは。お姉ちゃんと一緒に出かけるのは嫌だって言うし、私だって嫌だもの。アイツ、恥ずかしがり屋で変なところで強情なんだから。でもそういうところ、稜央さんともそっくりね」

稜央は肩を竦めて、音源をサーバにアップした。

稜央のピアノ演奏に、映像を付けて1つの作品にしたいと梨沙が提案してきたのが1ヶ月半ほど前だ。梨沙の大学の課題だったが、稜央に音楽を担当してもらい、Music Clipのような作品をつくりたいと。
だったら、と稜央も『作曲にチャレンジしたい』と言い出し『どうせなら蓮も参加してもらおうよ』とまで提案した。梨沙は最初は大反対したが、稜央が『これは俺らの父さんのために捧げる作品にしよう』と言うと、梨沙は納得した。蓮はすんなり承諾した。

梨沙が表現したい映像のイメージを伝え、稜央は生まれて初めて曲作りをした。思った以上にスムーズだった。イメージはすぐに音となって稜央の頭に降りてきた。

こうして稜央はピアノで、蓮はヴァイオリンとヴィオラで、梨沙は作画と動画制作でチャンレジした。

完成したら、梨沙も出品した若手アーティストの集まるイベントにも出そうと考えていた。

作品は、チーム名で出す。3人のイニシャルを取って

"Links +und Rechts“ (リンクス ウントゥ レヒツ)

ドイツ語で「左と右」を表し、意味は『縦横無尽』だ。

「父さん、なんて言うかな」
「さぁね、これをきっかけに連絡取りなよ」
「俺から?」
「そうよ。私が言うのは簡単過ぎるもの」
「うん…まぁ…」

稜央は思う。

俺たちは何のために出逢ったのか。
逆らえない運命の元に引き寄せあっただけだろうか。
無から有を生み出し、それを伝えるために俺たちは才能を与えられたのではないか。

自分の愛を壊すことしか出来なかった、破滅へ追い込む人間の気持ちがわかると言った、あの父が。
俺らが共同で「生み出した」作品を見て、どんな顔をするだろうか。

見たい。その時の顔が見たい。
そのためにも心を動かす作品を作りたい。俺たちのスキルを最大限に活かして。
そうすることであの人の『破滅』を、止められるかもしれないんだ。

梨沙も、同じことを考えていた。

パパ。いつもどこか寂しさを抱えてずっと生きてきたパパ。
胸に空いた風穴を埋められずに、ずっと苦しんできたパパ。

私たちがそれを、埋められたらいいな。
パパが愛してやまないと言ってくれた、私たちが。
私が生まれ変わるまでは、私は今の私ができる最大限の事をしたい。
パパの愛する人たちに寄り添って。


やがて陽が傾き、茜色のグラデーションが窓の外を染め上げていた。
稜央は予定にはなかった、ショパンの『英雄ポロネーズ』を弾き始めた。梨沙は更に描く。


1つと1つが出逢い交わり、1つの螺旋となって空を越え、国境を越え、時を越え、駈けていく。
光。





END

【あとがき】
長編で癖の強いこの連載を最後まで読んだいただき、本当にありがとうございました。これ以上嬉しいことはありません。

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