【連載旅小説】繭 #4
翌日午前中、僕と真結さんはサラエヴォの中心にあるヴィエチュナ・ヴァトラ(永遠の炎)と呼ばれるモニュメントの前で待ち合わせをした。
「おはようございます」
彼女は白いTシャツに黒いパンツ姿で現れた。偶然にも僕も同じ格好だった。
「あ、なんか服装、被ってるね…」
そう言うと彼女はちょっとバツが悪そうにしたが「気が合いますね」と言ってくれた。
「このモニュメントですが、ナチス・ドイツからサラエヴォが解放されたことを記念して、戦没者を弔うために設けられました。ちなみにジェノサイドという言葉は、ラファエル・レムキンというポーランド系ユダヤ人弁護士によって造られた言葉で、ナチス・ドイツを裁くニュルンベルク裁判で用いられています *1」
「ホロコースト、だよね」
「はい。ホロコーストはジェノサイドとも言えると私は思います」
真結さんは右手にある通りへ入っていったので、僕も後をついて行った。
洒落たカフェや服屋などが並ぶ通りの途中で、彼女は立ち止まり足元の道路を指差した。
「サラエヴォのバラ、と呼ばれているものです。砲弾の跡に赤い樹脂を流し込んだものです。人々が流した血のようにも見えます。これはサラエヴォ市内に点在しています。実際の砲弾の跡なので、形はどこも違います」
痛ましい記憶というのは、消してはいけないものもある。こうして街が受けた傷、つまり市民が受けた傷だ。
説明を聞いた上で見るサラエヴォのバラは生々しく、おぞましかった。
しかしもし話を聞いていなかったら、別の意味で気味が悪かったかもしれない。
「想像してみてください。私たちは今まるでカップルのようにお揃いのような服を来て一緒に歩いていますが、そこを常に狙撃者が銃の雨を降らせていたことを。雨ですよ、銃弾の。これはその跡です。誰かの身体を貫通したかもしれません」
真結さんは淡々と語ったが、僕はめまいがしそうだった。
落ち合ってまだ10数分だというのに、僕は本気でサラエヴォの街に “投下” されたのだ。
隣を歩いている彼女が、姉さんが、学生時代の友人が、僕の目の前で銃弾に倒れたら。
もし姉さんと義兄さんが2人でいる時にどちらかが銃弾に倒れたら…。
おそらく2人共、後を追って自ら命を絶つ選択をするだろう。
そうしたら遺された僕は…?
そんな家族や友人や恋人がどれだけいたことだろうか。
なぜ…、どうしてそんなことになってしまうんだ。
なぜ、撃つ必要があったんだ。
狙撃手と何の関係もない人に。
交わることのない人生を送っていた人に。
彼らがいなくなったらそこが自分の国になるからか。
自分たちだけ存在すれば、それで良かったのか。
彼らは邪魔者なのか。
邪魔なら命を奪えばいいのか。
「…やめておきますか、春彦さん」
数歩先を歩いていた彼女が振り返って言った。
僕の目は潤んでいた。
「いや、続けてくれて大丈夫」
「では次は紛争中の実際の映像が見られる博物館があります。そこへ行ってみましょう」
彼女は更に歩みを進めていった。
* * *
博物館というので、僕はてっきり立派な建物を想像していたが、彼女が入っていったのは集合住宅のような入口だった。
ドアを開けると奥に階段があり、それを登っていくと2階にそれはあった。
Genocide Museum(虐殺博物館)*2。
建物の一室にひっそりとある印象だった。
受付には若い男性がいて、にこやかに対応してくれた。入場券を2枚買い、ここでも僕は彼女の後をついて歩く。
内部はいくつものスペースに区切られ、市民の手記や遺留品などの展示があった。
「手前のスペースは生存者となった主婦の手記です。彼女は幼い子供が3人いましたが、セルビア人兵士により家財を奪われ、上の子供は目の前で射殺され、自身も兵士数人に強姦されました。彼女の手記は被害のことだけではなく、ボシュニャク人もセルビア人に対し虐殺を行ったことも記されています」
真結さんの説明を聞きながら、若い母の壮絶な経験を想像し気が滅入る。
彼女の年はちょうど姉さんと同じくらいだ。
姉さんの子供が自分の目の前で銃殺される…部屋の中の家財が奪われ…姉さん自身も兵士に…。
僕は目を閉じて頭を振った。
「奥に行きましょう」
真結さんに促され奥へ進むと、ビデオを上映している部屋があった。
「ここがわかりやすいと思います。しばらくここで映像を観ましょう」
僕たちは並んで椅子に座り、流れる映像を見た。
僕らの他にもバックパッカーのような若者やカップルが神妙な面持ちで画面に見入っていた。
それは当時の市民生活を映したものだった。当時のニュース映像であったり、誰かのプライベートな撮影によるものだったりすると思われた。
朝、人々が通勤か通学か買い物か通りを渡ろうとしているが、みな装甲車に身を潜めている。
『今だ!』
先に渡っていた誰かが叫ぶと、隠れていた人たちが一斉に走って通りを渡る。
『早く、早く! 急げ!』
そこへ銃声が響く。
「サラエヴォの街は戦車が包囲していました。ビルには狙撃手があちこちに潜み、とにかく動くものは何でも撃たれました。昨日バスターミナルからトラムでスナイパー通りを通りましたね。この映像はまさにあの通りです。皆が隠れているのは国連の装甲車です」
真結さんが解説してくれる。
別のシーンでは、やはり装甲車に身を潜めながら移動している市民のうち1人がつまづき、装甲車から国連から派遣されたと思しき若い外国人兵士が助けようと飛び出したところ、彼の頭に銃弾が命中した。
「あぁっ!」
ショックだった。
僕は思わず声を上げ、首を垂れ頭を抱えた。
「私は銃を撃ち放ちまくる娯楽映画やゲームが嫌いです。これは映画ではありません。娯楽映画で感覚を麻痺されたくない。これは私たちが生まれるか否かほどの、ごく最近の出来事、事実なんです」
僕は泣けて泣けて仕方がなかった。そして怖かった。
「出ましょうか」
真結さんが僕の身体を支えるように抱き起こした。
* * *
僕たちは博物館の近くにある、この辺りでは少し珍しい高層の建物の上階に来ていた。
ホステルが併設しているカフェが、サラエヴォの街を360度パノラマで堪能出来るという。
彼女はカフェオレを2つ頼み、テラス席へいざなった。
もうお昼近いだろうか。
今まで見てきた暗澹とした空気とはうって変わり、サラエヴォの空は青く突き抜けていた。
低い山がぐるっと街を囲んでおり、盆地だということがよくわかる。
そののどかさ、街の美しさ、眼下の人々の行き交いを見ていると、さっき目の当たりにしてきた紛争の事実が、全く信じられなくなってくる。
「きれいな景色だね」
「はい。でも先程の博物館の展示でもあったように、紛争時はあの山の稜線には全て戦車で埋め尽くされ、その砲口は街中に向けられていました」
僕は再び絶句する。本当に今この美しい風景に不釣り合い過ぎる。
「せっかくの楽しい旅を、私が台無しにしてしまいましたね」
「いえ…」
「今こうして私たちが旅人としてサラエヴォに来られることが何より幸せなことです。ただ、旅人として受け止めなくては行けないことがあると思っています」
「何をどう受け止めるっていうの?」
「たとえ隣人であろうと、セルビア人だから、ボシュニャク人だからという理由で殺し合いがあったという事実です。同じような争いは世界中のあちこちで今なおありますが、単一民族(というには色々語弊があるかもしれないが)である私たち日本人には、ちょっとわからない感覚だから、知ろうとする必要があります」
「でも…僕みたいな人間に、いち日本人に一体何が出来るっていうの? 真結さんは無力を感じることはないの?」
「それはあります。でも出来ることはあります」
「それはなに?」
「自分の愛する人を無様に死なせてはいけないと強く誓い、その信念を持って自分の行いに反映することです」
真結さんはそう言ったあと、口元を強く結んだ。
#5へつづく
[参考資料]
* ジェノサイドとは
※『Axis Rule in Occupied Europe(占領下のヨーロッパにおける枢軸国の統治)』という書籍の中で造語され、ニュルンベルク裁判にて初めて使用されたとしている
* サラエボの虐殺博物館、現在も続く大量虐殺の人類の歴史
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