【連載旅小説】繭 #最終話
真結さんは「腹ごしらえさせて」と、パン屋さんでソーセージの入ったパンを買い、かじりながら僕と並んで歩いた。
少し距離があるけれど、話しながらオリンピックスタジアムへ向かうことにした。
大きな通り沿いにあるモスクを右に曲がり少し進むと、右手に墓地が見えてくる。十字架が見えるから、東方正教の墓地なんだろう。
更に進むと、右手奥にアイススケートなどで使用されたというゼトラ・オリンピックホール、その奥にサッカーなどを開催するアシム・フェルハトヴィッチ・ハセ・オリンピック競技場が見えてくる。
「あそこに見える競技場は、現在は試合やイベントなどで "正しく" 使用されています」
真結さんが教えてくれる。
更に少し進むと、今度は左手に広大な敷地に、夥しい数の白い墓標が立ち並ぶ景色が見えてくる。
「あそこがオリンピックの予備競技場として使用予定だった場所です」
白い石柱のような墓標は地面からニョキニョキと生えているようにも見えた。とにかくすごい数だ。
夢の跡がまさかこんな姿になるなんて。
1984年の当時、誰がこうなることを想像したんだろう。
通りから見える一面の白い墓標はイスラム教のものだと真結さんは教えてくれたが、よく見ると四角い石盤や十字架を掲げたものもある。
「色んな墓石が…」
「紛争中は遺体を埋める場所を探す時間がないほど、次から次へと人々が死んでいったため、競技場が急遽墓地として使われていきました。それはつまり、どの宗教かどうかなんてきちんとエリアを分ける時間さえなかったのです。
皮肉なものです。自分たちの土地を争った民族たちが、死んだら同じ敷地内で、隣合わせで永遠の眠りに就いているのですから」
本当にその通りだ。
「中に入ってみましょうか」
僕は少しためらわれた。
「僕なんかが入って良いものなの?」
真結さんは「弔う気持ちがあれば構わないと思いますが」と言い、入口へ向かった。
僕はまた、彼女の後をついて行った。
墓石には亡くなった人たちの生年と没年が掘られているが、その没年のほとんどが1992年から1995年だった。
中には顔写真が貼られていたり彫り込まれているものもある。
若者も多い。
「動くものは何でも撃つ。そんな紛争でしたから、死者を埋める作業は日が暮れてから、夜が明けないうちに行われていたようです。目立たないようにやらなければ、自分たちの命が危ないからです」
そんな危険な中で、太陽のない闇の中、死者を埋葬する作業はどんなものだったのか。
僕は午前中にビデオで観た、国連の若い兵士が頭を撃ち抜かれるシーンを思い出した。
あのように倒れた人たちが、ここを永遠の地としている。
「"花はどこへ行った" という歌をご存知ですか? 私はサラエヴォの墓地を見るといつも頭の中で流れてくるんです」
墓地の外に出た時、唐突に彼女は言った。
「…聴けばわかる、かな」
彼女はその場で歌い出した。話す時の少し低い艷やかな声とはまた違って、透明感があった。
僕はまたギャップに驚いた。
僕が呆気にとられたような顔をしたせいか、彼女は歌うのを止めて咳払いをひとつした。そして歌詞の内容を説明してくれた。
「花は少女が摘み、少女は若い男性に貰われて行き、若い男性は兵士として戦場に送られ、若い兵士は墓場へ行き、墓場は花が覆い尽くす。そしてその花を少女が摘み…人はいつになったら学ぶのか? という内容の歌です」
僕は墓地に目をやった。
そして今なお世界のどこかで起こっている民族対立や紛争があることを痛感した。
墓地は緑が豊か、空は突き抜ける青、墓標の眩しい白…。
美しいと言っていいものなんだろうか。
僕はどう言葉にしたらよいかわからなかった。
スマホを取り出し、昨日姉さんが送ってくれた写真を表示させる。
僕の飼い猫のロドリーグと義兄さんと姉さん。
姉さんのお腹の中には、僕の姪っ子か甥っ子がいる。
この笑顔が、幸せが明日、いきなり失われるかもしれなかった紛争。
引き裂かれる家族。
男性は強制収容所か虐殺。
女性は強姦。
子供も容赦なく撃たれる。
強姦により、父親がどの兵士かわからない子供がたくさん生まれたとも聞いた。
一代では終わらない苦しみ。
優しく温かく包んでいた繭が、突如赤く染まり突き破られる紛争。
そんな現実、起こらなくていいんだ。
そんなの運命なんかじゃない。
誰もが幸せを感じて人生を終える義務があるんだ!
繭は自らの力で生きる証として突き破るものだろう?
憎しみ合い、悲観の途方に暮れるなんて…
僕は家族の笑顔の写真を見ながら、また涙が込み上げて来た。
真結さんはあんなに気丈なのに僕は泣いてばかりで…情けない。
「僕…傍観者にはなりません…」
唐突に呟いた僕に、真結さんはそっと微笑んだ。
* * *
帰りはバスを使い、街の中心まで戻ることにした。
「真結さんはこのあともサラエヴォに残るの?」
「あまりかっちりと予定を決めていませんが、国内をあちこち周ろうと思っています。春彦さんは?」
「僕はモンテネグロへ移動しようかと考えていた」
「いいですね。モンテネグロは打って変わって素敵なリゾート地ですよ。白い岩壁、城壁など見応えがあります」
「リゾートか…一人で行くにはちょっと寂しいかな」
「そんなことありませんよ。モンテネグロに行くなら例のバスターミナル、セルビア人街にありますから、違いをよく感じてきてください」
「わかった」
少し遅れて僕の言葉の意向を察したのか、彼女はちょっとイジワルな笑みを浮かべて言った。
「まぁ、また偶然会えたら、その時はその時、ということにしましょう」
僕も頷いて、強引に誘うことはやめた。
でも何となく、会えるんじゃないかな、という気がした。
…そんなうまいこと、いかないか…。
「それにしても私、さすがにお腹が空きました。春彦さんはやっぱり今日は食欲湧きそうにありませんか?」
僕は少し考え…悲しみに打ちひしがれるよりも、今すぐ止めるべき行動や思考について考える方ことをすべきだ、と思うようにした。
「いえ…そのブレクっていうやつ…食べに行きましょうよ。真結さんは僕がいれば折半で何とか食べられる量なんでしょう? 食べながら今度は、未来について話したいなーって思って」
「未来…」
「そうです。争いのない未来とは…傍観者のいない未来とは」
真結さんは笑顔になっていつものように「じゃあ、行きましょう」と言った。
「こうなったら食でもとことんボスニア・ヘルツェゴヴィナを堪能してやる! こんなにあらゆる感情を持って旅をした国は初めてだよ。絶対に忘れられない土地になる、ここ」
そして僕は小さな声で言った。
「本当に、ありがとね」
真結さんは一瞬僕を見やったが、すぐに素知らぬふりをして車窓に目を向けた。
でもその口元は、バスを降りるまでずっと口角が上がったままだった。
* * *
END
[参考資料]
* 花はどこへ行った
歌詞
カタリナ・ビット、平和への願いを込めて舞う
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