0311

もう11年か。そう思う。

あの日私は都内のとある川沿いにある社内で仕事していた。
みな机の下にもぐったが、どこかのデスクのモニタが1台床に落ち、大きいなと思った。

当時まだChromeの検索でTwitterの呟きも見ることが出来たので、外部の状況はそこで確認していた。

2度目の揺れの前後(憶えていない)で、土手に避難するよう指示が出た。

その土手でまた大きな揺れを感じ、私は立っていられず手をついた。

地面が波を打っているのを感じた。地震って本当に「波」で訪れるのだと実感した。

やがて津波が来るかも、と言われ(東京湾が近かった)、社内に戻った。

帰宅指示が16時に出たが、私の住まいは都内だったし終業まで残っていた。一人暮らしの部屋は少し離れてて、実家の方が近かった。
私は自分の部屋の窓が割れたりしていたら、と心配だったが、年配の先輩に「部屋の窓が割れていたら尚更過ごせないと思うので、今日は実家に帰った方がいいと思う」と言われ、素直に従った。

会社から実家まで1時間歩いたが(それまでも何度か実家まで歩いたことはあった)、この時は「こんなに遠かったっけ」と感じた。

実家で一晩過ごし翌日自分の部屋に帰る。余震はまだまだたくさん。

フランス人の友人がメッセージをくれた。私は「怖い」と伝えた。
彼女は「なんてかわいそうに。私もみんなもとてもショックを受けている」と言ってくれた。

終日TVを点けていた。遅い時間になると津波状況を知らせる日本地図が映し出され、BGMはピアノジャズが流れていた。
窓の外は月夜だった。満月だったかは憶えていないが、明るい月夜だと思った。
その月とジャズピアノが強烈な印象で残っている。
後に知人から「あの時のピアノはキース・ジャレットのケルン・コンサートではないか」と言われ、キース・ジャレットを聴くようになった。

今の職場の近くには東電本社があって、シュプレヒコールがひどくて打ち合わせに影響が出ることもあった。
私はあぁいった責め方はとても嫌いである。
今もそこで働き、事故後の対応に奔走している人がいるのである。

後に関西の友人と被災地を訪ねる旅をした。あまり遠くに行けず、宮城県内にとどまったが、女川・石巻、津波の爪痕を実感すると言葉が出なかった。
女川ではあんな高い、頭上はるか高台の上にある小学校の、何階かの壁辺りまで津波が来た、と記されているのを見て。

石巻では住民が逃げ込んだという高台の公園に登って海側を見た時、まだなーんにもない土地が広がっているのを見て。

枕元には常に防災リュックを置いて寝ている。靴とか、推しの書いた書籍とか(精神的な安定には推しは必須)入ってて重いけれど…。

いま、あの頃よりも大切な人やものが増え、またいつくるかわからない大地震には恐怖でしかない。
備えても生きるか死ぬかわからない。どちらにしても辛いことは避けられない。

もし生き残ったら、(今でもいつもそうだけど)自分ができることをしていきたいと思う。

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