Q.あなたは神を信じますか?

A.特定の神を信仰しているわけではありませんが、神の存在は求めています。

カルト宗教にハマりそうな問答からこんにちは。また寄り道をして己の開示を進めます。

こんな応答をしたが最後、「そんなあなたにご紹介したいのがこちら!」とばかりに勧誘への道が開けてしまう。別にどこかの教団に属したいわけでも、他人の作った教義に従いたいわけでもないのだけれど、自分の中で信仰心は存在感が大きい。

先日、上野の東京国立博物館に行った。目的は最近熱を上げている刀剣鑑賞。大包平だの三日月宗近だの、トーハクは優れた刀剣を代わる代わる展示してくれる。単眼鏡を携え、何口もの名刀を見て回る。まあ私は刀剣鑑賞の上では初心者だし、人気の展示ゆえ心ゆくまで一つのケースにこびりついているわけにはいかないので、そこではあまり没頭することはない。

刀剣ブームというのは本当なんだろう。自分がまさにその渦中にあるというのに他人事だけれど、平日朝一番に行っても刀剣展示はそこそこ賑わっている。両国の刀剣博物館に行ったときはさほど人が気にならなかったというのに。あそこも良かった。一つの広い展示室に所狭しと刀剣や拵が並んでいて、私は3時間ほどこもって休み休みじっくりと見て回ったものだ。

閑話休題。今回、己の宗教観を自覚したのはそこではない。その後訪れた法隆寺宝物館である。文化財保護のためかなり照明も暗く、あまり混み合ってもいない。静かな一人客が主である。私もその時代に明るいわけではなく、別段めあてがあるわけではなかったのだが、買ったばかりの単眼鏡で見る美術品は存外面白く、楽しんで鑑賞していた。

そこで気づいた。「仏像に単眼鏡を向ける」行為に抵抗がある。

先に記したように、私は特定の信仰を持っているわけではない。豆知識として仏像の名前や姿、位の高低などをなんとなく聞いたことはあるけれど、それが目の前の像と結びつくかどうかは自信がない。その程度だから、特に宗教的な感銘を受けることはないと思っていた。
けれど、両手で抱えられるほどの小さな像を目の前にして、すっと心が澄んだ気がした。仏像に「神」という言葉はふさわしくないだろうと思うので、ざっくりとした概念として「上位存在」としておく。上位存在に対峙している。見つめられている。おそらく、私などが不躾に覗き込んではいけないような気がする。
他人と対面する際、まともに目も合わせずじろじろと身なりや身体を見分するようなふるまいは失礼である、という感覚は理解をしていただけるであろう。相手が憧れの人や目上の人物であればなおさら、相手方を尊重するように動くと思う。イメージとしてはそれに近いのではなかろうか。人ではない、究極に尊いお方と顔を合わせた時の緊張感、それでいてあちらは私にせせこましい関心など抱かないと分かっているときの、赦されたような安心感。

こう書くと、キリスト教にもかなり影響を受けているかもしれない。赦しの概念なんてまさにそうだ。これはクリスチャンの指導者に付いて合唱をしていた頃に端を発する。たぶん人格に深く根を張ってしまっているから、一生この感覚は残ると思う。

元々、カメラを向けることに抵抗があるのは分かっていた。教会の外観は写真に残せるけれど、中に入って美しいマリア像やステンドグラスを前にしてはスマートフォンを取り出すことすら躊躇われた。私の感覚では、レンズを向けるという行為はかなり重い。相手を客体に押し込め、「対等にコミュニケーションを取るつもりはない」という意思表示になる。そもそもここでの相手は対等ではないのだけれど、相手方に人格(神に人格という言葉はふさわしいのだろうか?)を認めない、向こうもこちらを知覚しているのにそれを無視する、とも言い換えられる。今までは「キリスト教の偶像」と「カメラ」の組み合わせのみに覚えていた抵抗を、「仏教の偶像」と「単眼鏡」に覚えた。これはちょっとした事件であった。合唱を嗜む中で少々キリスト教の教義には親しんできたが故のちょっとした信仰の真似事かと思っていたのに、私の信仰心はもっと対象を広く持っていた。

これだけ宗教宗教と言っている私も統計の上では無宗教に属するのが面白い。どこかで帰依も活動もしているわけでなし。験担ぎやおみくじに親しむ現代の日本人が無宗教なわけがない、という言説をどこかで見たけれど、私はそれに少しばかり自覚的なだけである。

ただ、頭の中に自分のよりどころとなる上位存在を作り上げるのは、ライフハックとして有効だった。少なくとも私には。キリスト教も仏教も神道もそこにまとめられるような民間信仰もその他聞きかじってきた宗教も、全部一緒くたにしてしっくりくるところだけを抽出、生活の中で自分が感じた要素を付け足したりなんかもして、かなり勝手な宗教観が出来上がりつつある。横浜駅のごとく完成するめどは立たないけれど、考え続けることは良いことだろう。

……これは私のようにある程度身分を明かして書いても大丈夫なやつなのでしょうか。

でも、既存の宗教も一歩引いた視点から見られるので、却って揺らぎにくい、とは思う。自分なりの判断基準を持つことは大切だとどこでも説かれているし、ロジカルな人間も「論理を信奉している」と表現されたりするように、信仰と信念の区別は付きづらい。それに多くの場合、二つの使い分けは恣意的であてにならない気もする。生きる上での考え方の指針だということを忘れなければ、盲目的に得体のしれない神を崇拝する「ヤバい人」にはなるまい。
また上位の存在を認めることで、全部自分の責任として抱え込むのを防ぐ狙いもある。運命のせいにしてしまえばいい。

生きやすいように教義をいじって自分だけの神様を作ろう!

これは教祖の言ですね。人望を獲得してしまう前にやめておきましょう。

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