なんだったっけな

かなしい。

通勤に歩いているとき、布団に潜り込んだとき、手元の画面から目が離せないままお風呂をずるずると渋っているとき、日に何回も頭に浮かぶ。つらくはない。つらいのかもしれない。けれど、かなしい、の方がしっくりと馴染む。悲しい、でもない。漢字表記から受ける印象ほど涙にくれてはいない。もっとぼんやりとして、なんとなく、冗談めかしてコミカルですらあるような、そんなかなしさ。これは何だ。

しんどい、ばかりが頭に浮かぶ時期も確かあった。今はそうではない。脳髄が痺れている気がする。いつも何か重大なことを忘れているような焦りを抱えている。大して惜しくもない終電を見送るような、穏やかな諦観も少しある。出すべき澱を丁寧に溜め込んでいる。書き物の機会が減っているのなんて、昨年から変わっていない。むしろ日記の提出率は向上している。関係ないけど言語化の習慣が消えかけているせいか短文の連続したポエミーな文体になった。ポエミーは冷やかしの言葉ではない、滔々と長文を重ねるのが癖だったはずの私が書いているから面白いのだ。ああ、じわじわ伸びてきた。

今キーボードを叩いている右手首がぽきぽき鳴って鬱陶しいとか、広範囲に痛みの響く口内炎が治らないとか、肩から首が凝りすぎたのか土曜あたりから頭痛が気になるとか、体の不調はあるけれど、かなしさの主たる要因ではないと思う。真夜中である今になって空腹を自覚してはいるものの、同時に閉塞感もあるので何か食べたいわけではない。食べた後でなんとなく胃がもたれ、やっぱり食べない方がよかったな、と後悔する、あの時の腹具合が明確にイメージできてしまうから、食べない。空腹は確かにかなしさを誘発するかもしれないが、満腹よりよほどすがすがしい。満腹だってじくじくした自責の念を誘発するのだから二つに一つ、我慢して偉いね、と私から私へ賞賛を送れる分、前者の方が随分とましなのである。

あまりに普段の生活が理由もなくかなしいので、誰かに話してみようかとも思った。けれど、かなしい私は人の話など聞きたくないのである。このかなしさを蹴散らす方法を他人が持っているとも思えない。提示された解決策を素直に受け入れられると思わない、がより正確かもしれない。高校生の時分にお世話になった先生(僕は先生ではないから、と言っていたのを覚えているけれど、高校教諭でなくてもカウンセラーという職は先生と呼ばれてよいと思う)だったらどうであろうか。あの時すがった先生にはまた話を聞いてもらいたいような気もする。こちらにめいっぱい喋らせてから、まず今の状態のフィードバック、解決策は最後にほんの少しだけ。さすがプロ、なのだろう。相手の話にはならない、あくまで私のことだけを議題にすることが許されていた、というかそれが目的であったあの場はなんて救われていたのか。

他人の話にはたぶん共感できないし、コミュニケーションにおける愛想も在庫切れだし、自分のことにしか興味がないのなら、責任をもって自分だけで向き合いましょう。その覚悟ができているだけ私は偉い。自分のことを考えるのは苦にならないわけだし。相手のいる会話でしか思考の整理ができない人間になりたくない。あなたのことは知らないから私のことも聞かせません、一貫していて立派でしょう。よその誰かに褒められる機会も作らないので、大げさなくらい自画自賛する癖はついた。がんばっていてえらいね。

かなしさは言語化できていない感情のわだかまりなのでしょうね。解決するにはもう、綴るしかない。歌や酒やその他ストレス発散の手法であるアクティビティは、綴るための前準備にしかならない。言葉にして出してやらなければ、重たく絡まる面倒な感情は外部からの刺激では霧散してくれない。ひたすら自分を見て、自分の話を聞く。あなたはこう考えていますね、こういう傾向がありますね、とセルフでカウンセリングをしている。己は患者であり客であり、観察対象でもある。なかなか見飽きないから閉口する。私の無意識にとっては周囲の人間も私の思考を照らすオブジェクトでしかないことがよくわかる。他人は鏡って本当だったんだ。

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