はやく生まれ直したい その2

前回の投稿からずいぶんと間が空いた。この間わたしは無事に卒論を書き上げ、おそらくは卒業要件を埋め終えた。そこにかぶさるようにして新生活の準備がなだれ込み、四方八方からせっつかれながら最後のアルバイトも終えた。ずいぶんと状況が変わった。ようやく少し落ち着いて溜め込んだ日記を書いていく過程で、続き物にしていたnoteの記事を思い出した。

8月から全く進めていない。さすがにそろそろ、簡単にでもまとめておかねばならない。

激情との折り合いについては今も試行錯誤しているので。


正直、刀ミュに初めて触れた頃のことはあまり思い出したくない。今でも焦がれ狂ってはいるが、あの頃は比較にならないほど破滅的だった。うかつに外にも出られない中、趣味だった合唱の練習もできない中、あの鬱屈にあのステージがどれだけ眩しかったか。私はこの散らかった部屋で何もできずにいるのに、外にはこんなにも輝く人たちがいるなんて。ここで改めて自分の性質を自覚した。オタクはオタクでも「なりたいオタク」だった。

「なりたいオタク」なんて言葉があるかは知らない。私が勝手に言い出したものだし、これがオタクの心の動きなのかと問われても自信はない。けれど、何を血迷ったか、湧き上がってきてしまったのだ、「なぜ私はここにいないの?」が。


つまりは羨ましくなっちゃったんですね!


かなり個人的な偏見だけど、合唱やってる人はこの傾向が強い気がします。憧れの合唱団にも、活動圏が合えば比較的すんなり入れちゃうしね。他のジャンルに比べて聴き専が少ない、という傾向は誰かが言ってるのを聞きました。


体力をつけたくて、痩せたくて、私は真っ先に筋トレを始めた。プランクを主に、あとはスクワット、腕立て伏せ。ダイエット系のダンス動画をあさっては毎日踊ったりもした。その動機というのが「このままじゃあんなハードなステージを乗り切れない」だったあたり、かなり気をおかしくしていたのだろう。もう近いうちに自分もあんな舞台に立つんだと信じて疑わなかった、というより、そうなるんだろうと無意識に受け入れていた。

こういう症状を人は「神の啓示」と呼ぶのかもしれない。

もとより思い込みが激しいところ、一度その気になると一つのことにしばらくとらわれてしまうところは自覚していたのだけれど、21にもなってこんなにもまっすぐに運命の加護を頼むとは思わなかった(今はさらに一つ重ねて22になってしまった)。


そうそう、キャストの年齢が自分とかなり近いのにもショックを受けていたのでした。今でもなかなか受け入れられていない。こんなにも素晴らしいパフォーマンスで人々から求められている彼が自分と同い年? この公演当時なんて未成年? 私は今まで何をしていたの? これまでの人生って何? ……と思考が進み、最終的に「人生やり直したい」しか残らなくなってしまいました。


舞台経験なんてほとんどない、俳優になりたいだなんて言ったこともない、そもそも私は女であってスタート地点から違う、もう人生の根っこから異なる道を歩んできた人たちに抱いた同化欲求は、弱った心では解決しきれなかったのだろう。ましてやこちらは大学4年生、自分から一般会社員への道を切り開き、学生として卒論を書かなければならない。自ら淡い夢を砕いていくのがどうにも悲しくて、しばらくは就活も大学のゼミも手に付かなかった。

面倒な不都合を全て脇によけておいたうえで、気を紛らすのに何かしていたくて、夢に近づいているという幻覚を見たくて、引きこもり生活でなまった体を鍛えていた。


筋トレというのも、実は他の人に比べてドラスティックな意識改革だったのだと思う。私は元々、筋肉というものに嫌悪感すら抱いていた。

昔から、それこそ小学生の頃から、自分のがっしりした骨太の骨格が嫌いで仕方なかった。急な成長に置いて行かれたような、ひょろりとした手足のクラスメイトを尻目に、私は至極健康的でしっかりとした肉付きを維持していた。その反動か、病的なほどの痩せ型に憧れた。ガリガリで儚く可愛い子になりたい。肌も地黒で風邪もめったにひかず、それはもう正反対のないものねだりをしていた。今でも羨望を完全に捨てきれたとは到底言いがたい。

そんなコンプレックス持ちだったものだから、自身の健康(内実共に)を増強する筋肉なんて絶対に付けたくなかったのだ。どうせ私のことだからすぐ筋肉の目立つゴリラ体型になってしまう。キレイに痩せるとか望んでない、こっちはその不健康とやらになりたいんだ。……「子を健康的に育てる」という難しいミッションを私の母は完璧にこなしたのに、この親不孝っぷりである。

また、他人の筋肉に関しても恐怖に似たものがあった。なかなか共感を得られる自信はないのだけれど、先述の通り骨が浮くような体型を美しがる感性を得ていたためであろうか。生より死、有機物よりも無機物のほうが好ましい。筋肉は生の象徴、エネルギーの具現化であるし、男性的な魅力という面でもなんだか生々しいようで嫌だった。男性への恋愛感情は人並みにあったはずなのだけれど、対象はあからさまな「男性としての勝利者」ではなかった。線の細いアイドル、根っからのインドア、そんなタイプに惹かれた。


だから、舞台俳優が好ましく憧れの対象になったのが意外だったのだ。彼らは長い稽古期間から公演期間までをタフに駆け抜け、殺陣やアクロバットを得意とする肉体派である。根がインドアだろうと体術が苦手であろうと、少なからず体を作らなければ舞台には立てない。

ノースリーブのライブ衣装から見える腕や胸板も、最初は受け入れがたかった。ファンへのサービスショットと思しき露出に眉をひそめていた。コートにジャケットにハットなど、次々脱ぎながら衣装替えをするライブステージ、今も華やかに趣向を凝らしたコートスタイルが好きなのは変わらないけれど、あんなにも輝いて心底楽しそうに歌って踊っている姿を見れば、彼ら一人一人に仕立てられた衣装はどれも魅力的に決まっている。

体格までも演じるキャラクターに寄せているだとか、女の子のように華奢で小柄なキャストにも案外しっかりとした筋肉がついているとか、そんな発見をしているうち、生のエネルギーを宿した体というものを肯定的に見ることができるようになった。確かに彼らのパフォーマンスを下支えしている筋肉は、以前ほどにはグロテスクに映らなくなってきている。もう長いこと付き合ってきた価値観をいともたやすく解されてしまった。


そんなわけで、今日も筋トレをして寝ることとする。卒論期間で散らかった頭と自室ではどうにも続けられず、しばらくブランクはあったものの、最近ようやく再開することができた。今はあの頃ほど血迷ってはいない。が、それでも体を鍛える理由を別に持てている。またいつになるかわからない次回以降に振り返りたい。

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