MELOGAPPAに泣く

表現の手段を持っている人間は強い。私は彼らが羨ましくてたまらない。


MELOGAPPA『娘の1歳の誕生日をラップで祝ってみたい』という動画を観てみてほしい。眩しくて愛おしくて、私は何度も繰り返し観た。友人たちが1バースずつ担当して一つのオリジナルソングを作る文化をまねた、メンバーのさくまさんによる娘へのバースデーソングである。
多彩な友人たちのリリックすべてに娘への愛情があふれている。「生まれてきてくれて、大きくなってくれて、本当にありがとう」が最初から最後まで詰まっている。動画を観た私は白くもちもちとした手しか知らない赤ん坊を心から祝いたくなる。愛し合う両親、彼らと仲の良い祖父母、父の仕事仲間、動画の視聴者、多くの人に愛され祝福されている1歳の子はなんと幸福だろうか。歌われている些細な癖は常日頃から世話をしている父親にしかわからない。私のような人間は10年後にこの動画の存在を知り、物心のつかない自分を勝手に晒す父親が許せなくなるかもしれない。けれど、父であるさくまさんの喜びにあふれた、たいそう感動的な曲である。
しかし、同時に苦しくなる。私は、私は、と自分のことばかり考える私が勝手に苦しがっているだけではあるが、これもまた自分の劣等感に跳ね返る。ここからはもう、元の動画から意識が離れる。


彼は娘へ、妻への愛情を、自分が生業としている音楽に落とし込んだ。ハッピーバースデーのよく知られたメロディを下敷きにして溌剌としたトラックを作り、複数のMCそれぞれにリリックを書いた。相方にも愛のこもった出演をしてもらい、曇りのない笑顔で自らパフォーマンスをして、一本の動画に仕立てた。それを数十万人の登録者を持つYouTubeチャンネルで公開し、たくさんのファンにコメントをもらった。なんてすごいことだろうか。
彼は表現ができる。たまらなく愛おしい気持ちを表現して形にすることができるから、外から見ている我々は彼の気持ちが分かる。しかし、こんなことは誰でもできる所業ではない。

彼は良い夫であり父だと思う。それは彼の手掛けたこの曲からにじみ出ている。翻って、もし彼が音楽をやらず動画投稿もしない、普通の人間であったなら、私は彼の存在すら知らずに一生を終えているだろう。もし彼が内気かつ無口で、あけすけに娘を天使と呼び頬ずりすることのない父親であったなら、周りの人間もその愛情深さがいかほどか測りかねるかもしれない。それでも彼の愛情は変わらず深く大きいとしたら、彼はその持て余した情熱をどこで表現し発散すればよいのか。人に伝えられない人もその感情を持たないわけではないし、伝えられる人がより愛情深いというわけでもない。

世の人間がどうかは知らないが、私にはその術がない。音楽も物語も書けないし、単純なおしゃべりにすら上手く載せることができない。多大な労力をかけてエッセイにもならないお気持ち表明文を書いて、それでも止まない想像や有り余る感情は涙として浪費するしかない。むろん周囲に伝える手段にはなりえない。それがもどかしくて仕方がない。孤独なんて大それた語彙ではないが、ただこの頭で渦巻いているものが何にもならないというのは気がふさぐ。「自分さえ分かっていればいい」、これもまあ正しいとは思うが、先述のような相手のいる感情を表現しきらないのは自分だけの問題ではない。大きすぎる情動を昇華できないのも単純に苦しいものだ。

会社で働き始めて最初のアドバイスは「忘れる練習をしよう」だった。小さなミスや嫌なこと、緊張が積もり積もって情緒がままならなくなっている私に、先輩はスイッチの切り替えを教えようと、忘れること・考えないことの重要性を説いた。ナイーブさは長所ではない。高校生の時分にかかっていたスクールカウンセラーは私の感受性を哀れみながらも褒めてくれたが、会社員として働く私はもう思春期の子供ではないし、残念ながら表現者でも苦悩して成長する学生でもない。自分の感情が分からなくて、ないし伝わらなくて泣きわめく、それはもう思春期にすら至らない幼児の悲しみ方である。表現者に憧れ、内面にあるものを肯定された思い出が拭えない私には、まだ「忘れる」選択肢は早い。もう22にもなり、近いうちにまた一つ年を重ねる。若者には変わりないはずの22歳という年齢も呪わしいほどに、世には早熟な表現者がいくらでもいる。羨ましくて仕方がない。それこそ忘れられれば楽であるのに、私はまだ世間に擦れきれないでいる。あれこれ夢想する5歳と現実と折り合う22歳が相争い、なんとも中途半端だ。今更子供みたいな苦しみ方をしている私は、これまでどう生きてきたのだろうか。


意識が離れるとは言ったものの、最初の動画は結局導入にしかならなかった。こんなことは考えなくていい。幸せにあふれた奇跡みたいな動画を観てくれ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?