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新しい『ディセンダント』

※以下、『ディセンダント ライズ・オブ・レッド』のネタバレあり。

ディズニーで制作されてるティーンエイジャー向けの映画、『ディセンダント』の新作が公開されてました。

『ディセンダント』をご存知ない方に簡単に説明すると、「ディズニー作品に登場するヴィランズに子供がいて、その子達がティーンエイジャーだったら?」というオタクには涎が出そうなほど妄想の捗る設定のもと、架空の国「オラドン」を舞台にしたお話しです。
主人公の「マル」は「マレフィセント(『眠れる森の美女』」の娘、
その友人たちは『白雪姫』の悪の女王の娘、
「クルエラ(『101匹わんちゃん』)」の息子、
「ジャーファー(『アラジン』)」の息子
というように、様々なディズニー作品の登場人物の子供達が登場します。

『ディセンダント』は、ずっとマルを主人公にシリーズが続いており、3作目にて彼女を中心とした物語は大団円で終わります。
これから続編は作られないだろうな…と思わされるくらいの大団円でした。

そう、物語の幕は閉じたはずでした。

しかし、ディセンダントの新作が公開されていました…!
そして、主人公の交代…新しい「オラドン」の話…。
それを知った時は本当に驚きましたし、私は主人公の「マル」が大好きでしたので、新しい主人公たちを受け入れることはできないだろうと思っていたのです。

また、この新作で「シンデレラ」は黒人の方が演じられていました。
正直、私はポリコレについてあまりいい風潮だとは感じていません。
最近のディズニー映画で、昔のアニメーションを実写化する際、当時のキャラクターを作成時に想定されていたであろう人種を変えることは、どこか臭い物に蓋をするようだと感じていました。
それこそ、世論の圧力に押されて無理やり配置しただけで、キャラクターの人間性や背景を無視した制作側によるキャラクターの記号化がより強調されるような…。
また、アニメーションが作成された当時の価値観を無視してしまうのは、「黒人人種の方を主人公にするという発想がなかった」こと自体を無かったことのようにする行為に思えて、あまりにも傲慢な振る舞いなのでは? と考えてしまいます。
価値観は、時代によって変化していきます。親と子でさえ価値観のズレがあるように、昔と今の価値観は違う。現在、是とされている価値観も未来には悪しきものと見なされる可能性だってあると思います。
長くなってしまいましたが、もし黒人の方たちの活躍の場を増やすのであれば、昔の作品ではなく新しい作品で、また舞台となる地域設定と時代設定に無理のない配置をしてほしいと願ってしまいます(『ブラックパンサー』のような)。取ってつけたようなキャラクター配置は逆に制作側の「させてやってあげてる感」が強くなり、観る側が素直にそのキャラクターの活躍を受け入れられなくなるような気がしてならないのです…。(個人的には今まさにアメリカの映画業界で色んな人種の方が活躍できるようになってきている最中だと思うので、それが当たり前になることを願っています。今はその土台を少しずつ作ってる最中なのだと感じています)

話を戻しまして、『ディセンダント』の「シンデレラ」が黒人だったことについて。
最初は、あまり深く考えずに「またポリコレの影響か…」と落胆していました。「シンデレラ」のお相手「チャーミング王子」もアジア系だと思われる方が演じていたこともあり、なんだかなぁ…という気持ちでした。
しかし、過去作主人公である「マル」のライバル「ウーマ(『リトル・マーメイド』アースラの娘)」が、黒人であったことはすんなり受け入れられていた過去の自分がいたことを思い出しました。
「それは何故なのだろう?」と考えた時に、いくつか思い当たることがありました。
①原作「リトル・マーメイド」の「アースラ」の肌の色が薄紫であったことによる、人種の特定のしにくさ(アースラの悪役としての表現をアニメーションならではでしていたこと)
②『ディセンダント』において、「アースラ」の存在は登場人物の口から語られるだけで、実際には登場しないことにより、「ウーマ」のルーツが「ウーマ」自身のみに限定されること

①に関しては、無意識の人種差別をしていたのかも…と自省する部分もあるのですが、現実には薄紫色の人物なんていませんから、実写化する際の肌の色は気にしなかったかもしれません。ただ、「ウーマ」がハマり役すぎて他を想像が難しいのですが…。
②に関しては、もうそのままの意味ですね。「ウーマ」自身がディセンダントで初出のキャラクターであることが受け入れやすかった大きな要因であると思われます。(「シンデレラ」はすでに金髪白人であるというシンデレラ像があるため、違和感はやはりある…)


制作したであろう時期的に、ポリコレ問題に後押しされての配役であっただろうとは思います。
ただ、『ディセンダント』ってもともと原作にはなかった要素から生まれた物語です。アニメーション『眠れる森の美女』の「マレフィセント」に娘などいませんでした。
そのifの部分に、余白の部分に、人種を関係なく登場する部分があってもいいな、と思えました。

逆に言うと、そういう余白の要素を持ってる『ディセンダント』だからこそ、受け入れる余地があるように思えます。

ポリコレはいい風潮だと思っていないと言っておきながら、何言ってんの?と思うかもしれませんが、私は好きな『ディセンダント』という作品を楽しみたくて、自分を納得させたくてこんなことを考えたんだと思います。

主人公の交代も心配していましたが、新主人公「レッド」も結局好きになったし、音楽は過去一レベルでかっこいいし、「マル」の時代には解決しなかったヴィランの親の更生についても描かれていました。

結局私は新しい『ディセンダント』のことも好きになったし、次回作を匂わせるエンディングだったのもあって新しいシーズンを楽しめるようになって良かったな!ってなりました。

長文になりましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました!

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