孟母に三遷させるなかれ
視聴映画:「12か月の未来図」
どうも。(令和になってからは)初投稿です。
というわけで、(初投稿なのに)ブログ第二本目は「12か月の未来図」です。第一本目と同様、教師の視点から現場で起こっている教育問題を取り上げた映画です。まあ、今度の舞台はフランスのパリ郊外なんですが。
**あらすじ
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フランスの名門、アンリ4世高校で国語の教師をしているフランソワ・フーコーはベテラン教師で、授業はかなり厳しく、できてない生徒には厳しくあたる人物であった。(???「誤訳ですね」) また、彼の父は有名な作家で、彼はいわゆるブルジョアの育ちであった。そんなフランソワだったが、あることをきっかけにベテラン教師として教育優先地域にあるバルバラ中学校へ一年間派遣されることとなった。その地域は移民や貧困による混乱がわかりやすく形となっているかのような有様であった。そこの中学校では、授業中に私語はやまない、何かあればすぐ口答えする、果てはいたずらでよく消火栓の非常ベルが鳴って授業が中断されるなど、けっこうどうしようもない学校であった。もともと勉強大好き、エリート気質のフランソワにとっては信じられない光景で、当初は生徒に対し強く当たるぐらいしか授業をする方法がなかった。他の教師にしても若い新米の教師が多く、以前から生徒に悩まされていたこともあってか、すでにやる気をなくした教師も多かった。フランソワ自身も教え方がわからず苦悩していたが、生徒たちとの触れ合いやクロエという意欲的な教師との関わり合いを経て次第に自己を見つめなおし、己の教師としての在り方を変えていくこととなる。
フランスの教育問題とは
この映画は、最終的には某ゴールドエイト先生的な、「教師が生徒に全力でぶつかることで生徒も変わってくれる」みたいな笑いあり涙ありの青春モノに落ち着くんですが、そもそも生徒側に問題がなければそんなことをする必要はないわけです。もちろんそういう子は必ずどこにでもいるのだろうとは思われますが、じゃあなんでフランソワは“地方”の中学校に派遣されることになったのかという話です。答えは単純、そういう問題を抱えてしまった子が“地方”に多いからです。
これはもうそもそもの問題としてある都市と地方の格差について論じる必要もあるとは思いますがそれはまた別の機会にするとして、地方には貧困世帯が多く、またヨーロッパの外からの移民も多くいます。この映画ではそれらを示すものとして、この地域の町並みは荒れており、ボロボロの集合住宅やボーボーに生えた草むらがあったり、パリのアンリ4世高校にはほぼいなかった黒人系の生徒がバルバラ中学校のクラスでは半分以上を占めていたりしました。
彼らは片親だったり、両親が失業していたり、逆に働きづめでいえにいなかったりと家庭問題を抱えている場合が多く、そういったことも影響してか小中学校の間にいたずら行為が増え、学業成績が低迷、留年や、最悪の場合退学になってしまうこともあります(フランスの義務教育制度下には退学処分が存在します)。そうして退学になった生徒は自信をなくし、次に行った学校でもうまくやっていけずに路頭に迷うことになってしまうのです。
こういったことが多発している事態をどうにかしようと、フランス政府は「教育優先地域」を設定し、こ学業成績の悪かったり、貧困世帯が多く在住していたりする地域の学校には財政面などでの支援をするという制度を構築しました。
しかし、いくら政府が支援しようとそれはあくまで間接的なもの。生徒に直接影響を与えるのは教師なのです。ただ、少し考えてみてください。あなたが教師として生徒に何か教えるとなったとき、「やる気の”ある”生徒」と「やる気の”ない”生徒」、どちらに教えたいですか?ここでたいていの人は「やる気の”ある”生徒」と答えるでしょう。(「やる気の”ない”生徒」と答えたあなたはぜひフランスのこの地域で教鞭をとって下さい)
地方の不良学校にやる気のある生徒なんてそう多くいるわけがなく、そもそも授業すらまともに行えないような学校で誰も教師なんてやりたがらず、その結果優秀な教師はパリの学校へ、新米の教師がその教育優先地域の学校へ配属されていくのです。当然新米の教師も努力はするのでしょうが、スキルも経験もなく、生徒を御しきれず、結果教師を辞めてしまう、なんてことも起きているそうです。そうした悪循環がこの地域の教育を包んでいるのです。
義務教育の「平等性」とは
この映画には大きく分けて三種類の教師が登場します。一つ目に熱意があってスキルも経験もある教師(この映画での主役のフランソワにあたる)。二つ目に熱意はあるがスキルと経験が伴っていない教師。最後に、そもそも熱意のない、もしくはなくなってしまった教師。
この映画に出てくる中学校にもともといた教師は後半の二種類のみで、フランソワが来るまで誰も生徒を御しきれていませんでした。また、熱意もない教師に至っては、生徒をバカにした態度をとり、「生徒に敬意を払わ”せる”」とか「どうせあいつは年内に退学する」など全くその問題を解決しようという方向に向かいませんでした。しかし、フランソワが来てからは生徒の態度も変わり、一番の問題児で退学寸前までいった生徒がラストには、「パリの名門高校に行くにはどのくらい勉強すればいい?」とフランソワに聞くまでになります。
つまり、生徒たちは潜在的にはきちんとやる気や才能といったものを持っていて、それを引き出しさえすれば彼らは自ら学ぶことができるのです。しかし、彼らが地方の不良学校に行ったばっかりにそういったことを引き出してくれる教師に今まで巡り合えず、その結果ずっと無為な日々を送ってしまっていたのです。
フランソワは高校教師なので奇跡的に今回巡り合えたというだけですが、おそらく彼のようなスキルも経験もある中学校教師はいくらでもいるでしょう。それがたまたまその地域の学校に通うことになったがために、成長するチャンスを失ってしまったのです。もしそういった教師がいる学校に通っていたならば、彼らの人生はもう少し早く動き出していたでしょう。
義務教育は本来、教育の「平等性」が大変重要であり、どの地域にいても同様の教育が受けられるようになっている”はず”です。しかし実際は、一部地域の学校にばかりいい教師が集まり、その他の地域には新米の未熟な教師しかやってこない、という質的平等は全く考慮されていない状況が発生してしまっています。
「孟母三遷の教え」という言葉があります。これは孟母が孟子の教育のために住む場所を変えることでより良い環境を用意したということに由来した故事成語です。おそらく現在のフランスに孟母がいたならば、迷わず彼女は孟子を連れてパリへ向かったでしょう。しかし、実際にはそうしたくてもできない人々が大勢いて、生きるために仕方がないからその地域に住んでいるわけです。こういった現実としっかり向き合って、孟母が三遷しなくてもいいようなどこでも同じような教育を受けられる環境の整備がはやくすすんでほしいと思います。
こんな感じで〆たいと思います。ではまた。
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