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「無敵の人」になってもずっと強く居られないことを知った話

あの時、私は何でも出来る気がしていた。
自分が「無敵の人」になっているからだと気付かずに。

パワハラと降格で追い込まれた私

11年前、私はIT関係の業務で現場常駐でチーム派遣の管理者を務めていた。ルーチンワークではあるのだが、日々イレギュラーな事案が発生するため技術的な対応が出来るだけではいけない難しい職場だった。

そしてここの上長が自らの意に少しでも沿わない対応をするととにかく怒鳴り散らす。相談をすればなんだその対応はと怒るし、しなければ何故報告しないのかと怒る。ホワイトデーのお返しの品にすら激怒する有様だった。

しかし、本当に困るのは意に沿わないことというのが一定の論理性があることだ。変に間違っていないために無茶な要求ということで切り捨て難い部分もあり、社内の上司からは対応を是正するように詰められ続けた。

2年後、私は降格を言い渡された。

最初は気が楽になった。
ようやく矢面に立つのが自分ではなくなるからだ。

しかし、月日が経つに連れて、同じ職場に残らざるを得ないことに惨めさを感じるようになった。部下だった人間に使われる自分が情けなく、悲しく、本当に苦しかった。

その時に思ったのは「死にたい」ということだった。

楽な死に方を考えた。
色々と検討したが、どれも辛そうだった。痛そうだった。そして、怖くなった。妙に死に方に詳しくなった自分だけが残った。

考えてみると当時私は殆ど仕事の無くなった父と、毎日のようにパートに出ている母と暮らしていた。生活は楽ではない。こんな状況で次男が死んだらどうなるかを考えたら生きねばならないと考えるようになっていた。

ただ、生きることには後ろ向きで、晒し者のように働かされることは苦痛でしかなかった。

そんな悲惨な状況の私を噂を聞いたのか、前の職場の同僚が飲みに誘ってくれた。

しかし彼が掛けた言葉は「今の西尾さんを俺はヘッドハントする気にはなれない」ということだった。そこまで落ちぶれたかと悲しくなった。

死んだ気で大太刀回りを演じて大逆転

ただ、この日のことが自分に残った。
どうせならヘッドハントしたいと思わせたいと考えるようになっていた。

死にたいのなら、一度死んだ気になってみよう。

私は二人に狙いを定めた。
ターゲットは常駐先のパワハラ上長と、所属会社の上司だ。

こんなに病んでるところまで部下を放置したこと、次の職場すら検討していないこと、そしてパワハラをされているのに上司として何も手を付けないことを糾弾した。二人しかいない会議室で怒鳴り散らした。社会人になってから怒鳴ったことなど初めてだった。

上司が目に涙を溜めても止める気は無かった。
二年分まとめてぶちまけた。

それでも態度が変わらないマネージャーに業を煮やし、更に上の上司にまで報告を入れた。なんと社長の次のポジションの人が報告の20分後にテコ入れに来た。動き始めて1週間も経たずに就労環境は劇的に改善された。

私のメールが相当な語気だったことは間違いないが、こんなに早い展開になったことに唖然とした。じゃあ私が耐え忍んだ2年間は何だったのだろうと思ったが、動き始めたことが心底嬉しかった。

パワハラ上長については社内の指示命令系統を一切無視し、上長の上司に直接報告した。パートナーの立場での要求では通らないこともあるからだ。処分をされることなど覚悟の上だった。私はその時会社を辞める覚悟が出来ていたのだ。

パワハラ上長もかなりキツいお叱りを受け、態度は大きく改善された。もともとセクハラの前科もあり、社内的に相当厳しい立場に立たされるようになったと聞いている。

当時私が大暴れした少し後に「半沢直樹」が放送されていたが、苦笑いするしかなかった。あれはフィクションなのに、私が行ったのはリアルだったのだから。

「無敵の人」だった自分だったから出来たこと

死にたいと考え、会社を辞める覚悟が出来た時、私は全てを前に進めることが出来た。同業他社で転職し、リセットしてまた前に進もう。あの時にあれだけ出来たのだから、私に出来ないことは無い。一つの大きな自信になる出来事だったように思う。

しかしそれは大きな間違いだった。

不慣れな環境で、誰も知らない人に囲まれている状況。不器用で覚えるまでに時間が掛かる私はなかなか結果が出せなかった。

死にたいと思ったあの時の覚悟もどこかへ行ってしまった。新しい会社に入るとその中で立場を作りたいと考えるようになり、弱い自分に逆戻りしていたのだ。

つまりあの時私が全てを前に進めることが出来たのは、単に自分が一時的に「無敵の人」になっていたからだったのである。

私は全く強くなっていなかったし、背水の覚悟などずっと決められるわけではない。立場が悪くなることにリスクが無く、自分を守る必要もなく、単に火だるまになって抱きつけば良いだけだった私は気楽な立場で組織を破壊しているだけだったのだ。

全てを失うと「無敵の人」になることは出来る。
失うものが無ければ驚くようなことが出来る。
それは確かだと思う。

ただ、「無敵の人」で居続けることは出来ない。

一つのきっかけで覚悟を抱き続けるなんてフィクションではよくあるが、少なくとも私にはそんなことは出来なかった。生身の私は覚悟が消えた時には弱いままで、あの時は魔法が掛かっていたのだ。

一歩踏み出せば道が出来ることは確かだ。そしてその踏み出す覚悟がなかなか出来ないからこそ物事はいつまで経っても良い方向には進まないことも正しいと思う。

ただ、一歩踏み出した先で同じ志を抱き続けることは難しい。自分が死んだような悲壮な覚悟であれば猶更だ。死んでいない自分が大きくなればなるほどに覚悟は脆弱なものになり「無敵の人」ではない生身の自分と対峙することになる。

「無敵の人」ではない自分に何ができるのか

結局私はあの時「無敵の人」だった自分に容易く出来たことが何一つ出来ないことや、「無敵の人」ではなくなった後で残された弱い自分のギャップに苦しむことになった。

一歩踏み出した先に未来を切り開いたのも自分。
そしてまた無力に戻ったのも自分。

転職後に仕事が思った以上に出来なかったのはパワハラの傷に苦しんだことも大きかったが、逆戻りしたふがいない自分に対してまたしてもダメージを受けたことも一因だったように思う。

そこから立ち直るのに3年の月日を要したが、それは恐らく「無敵の人」だった自分を諦めたことや今の自分に出来ることを見つめ直し前に進んだからなのだろう。

ただその後当時の自分を考えるとありえないような会社にキャリアアップ出来たのだから、この回り道は無駄ではなかったと思う。

一度魔法が掛かるとその時の自分を追い求めてしまう。しかしそれは自分であって自分ではない。それが分かるまでには時間が掛かるということだ。

今の自分が「無敵の人」たる自分ではないことを自覚し、諦めたきっかけはこれといって無い。単に時間を掛けて「無敵の人」ではない自分が馴染んできたということではないかと思う。

過去に目覚ましいほど出来た成功体験は、勘違いを生む。それは「無敵の人」にならずとも同じことだ。だから、一歩踏み出した後で振り返ってほしい。

今の自分は何がどの程度出来るのか。
それは本当に自分の力なのか。

今回のことを通じて過去の自分を追い求めることほど苦しいことも、無意味なことも無いと感じた。

これを読んでいる皆さんの中でどれだけの人が私のように「無敵の人」になったかは分からない。相当少ないのではないかと予想するが、遠い世界の体験談として記憶のどこかに留めてもらえればあの日の自分も喜ぶことだろう。

結局人は、ずっと無敵でなど居られないのだ。

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