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何の特徴もない大学付属高校に入った理由を振返るが、特殊すぎて教訓にならない話

取り立てて特徴のない「日大櫻丘高校」

私の出身高校は日本大学櫻丘高校だ。

世田谷にある日大の付属高校で、それ以外に取り立てて特徴があるわけではない。スポーツが強いわけでもなければ制服がかわいいということもない。家からそこまで近いわけでもないし、楽しいイベントがあるわけでもない。

付け加えると当時は男女別学ということで共学ではあるのだが男子クラスと女子クラスが別れており部活でしか男女交流が無い、ちょっと変わった学校だった。

なお、男女別学に関してはかなり怖い話がある。男子女子で校舎が別れており、女子が男子棟に来るのは全く問題が無いのだが男子が女子棟に来る場合職員室以外に行ったら即退学という掟が存在していたと言われている。試した生徒が居ない上に卒業した2年後に普通の共学になったので本当のところは分からないが…。

閑話休題。

高校入学から四半世紀経過した後で思うのは「何故私は日大櫻丘高校を選んだのか?」ということだ。取り立てて特徴が無く、あまり通うメリットを感じないばかりか妙なルールが悪目立ちする学校を選ぶ理由など無かった筈だ。だが当時の私はこの高校を選び、推薦入試で合格して結構喜んでいた記憶がある。

ふと考えてみると案外15歳当時の西尾克洋は多面的に考えてこの高校を選んでいたことが分かった。恐らくこれは西尾家という家庭環境と私の極端な適性、そして学区の少し特殊な事情によるところもあるので大して役には立たないだろう。ただ、完全に他人事としてこの経緯を見てもらうと結構面白いとは思う。

一言で表せば「自分の実力で入れる大学付属の上限の高校に入りたい」というのがその理由なのだが、その背景には3つの理由があった。

父も兄も高校でドロップアウトという恐怖

我が家は父、母、2歳離れた兄という4人家族だったのだが、父は大学に入学しているものの高校時代に殆ど勉強していなかった影響で今でいうところのFラン大学にねじ込んでもらったのだという。

高校時代に父は勉強をする気は全くなく、市役所にでも入ろうかとボンヤリ考えていたところに担任の先生と祖父の勧めで大学を受験することになり合格。

ただ、大学に入ってもモチベーションは全く変わらず、バイトをしながら遊び惚ける日々を送り4年生で中退という最上級の親不孝をしている。現代のニートと何ら変わりはないことを戦後の貧しいころにやっているのだから呆れてしまう。

その後父は会社を経営することになるのだが、月末に寝汗で布団がびしょびしょになる様を見ると、幼いながらに学が無い中で生きていくことの難しさを感じさせられたのである。

母の短大卒は時代的なものを考えれば普通なのだが、兄は典型的な「やれば出来るがやらない」タイプだったことから進学校の落ちこぼれになってしまい定期テストで350人中348位みたいなとんでもない成績を取ってきていた。逆に350位でないのは何故なのかと聞いてみたいほどだ。

母から「何しに学校に行っているのか」と問い詰められると「野球しに」と平然と答える我が兄(甲子園予選で早々に敗れる高校にもかかわらず、だ)。この父にしてこの息子といった具合で、電車で10分の学校なのに寝過ごして江の島まで行ってしまうという有様だ。

ということで兄が高校に通っている頃西尾家は四六時中キレる母にまるで耳を貸さない兄、そして亭主関白なのにこればかりは何も言えない(当たり前だ)父、そしてそれに怯える私という地獄のような家庭環境であった。

このような中で育てば自らの将来に対して不安しかなくなるのは必然で、少なくとも大学は卒業しなくてはかなりヤバいと考えるようになった訳である。

応用が利かない自分が進路を確保するには

こんな家庭環境で育ったので、小学生の頃から勉強くらいはしておかねばと学校の授業で分からないところは無いように準備し、それなりの成績は取っていた。

問題は中学生になってからで、定期試験についてはまるで問題が無くそこには不安はなかったのだが塾に通ってみて気づいたのはどうやら私はレベルの高い応用問題に対する適性があまり無いということだった。

つまり、内申点は良いのだが実力テストが苦手ということだ。

中学校でこの有様だということは、高校に入れば更に差がつくことが予想される。果たしてここから巻き返せるのかと思うと不安が残るし、勉強を投げて江の島まで寝過ごすようなメンタリティになりかねない。

となると、大学に行けるルートをある程度今の段階で確保しておくべきだ。そう考えるようになったわけである。

公立は帯に短し襷に長し

私の住んでいた川崎北部学区には様々な公立高校があったのだが、学区で一番偏差値の高い多摩高校は自宅から自転車で5分程度という絶好のロケーションなのだが学力が少し足りないので第一志望として一般受験するにはかなりリスキーだった。

一方で当時二番目に偏差値の高かった生田高校だと少々レベルが落ちる感があった。少し学力が落ちるということを活かしてこの学校でトップを目指すという選択肢も今にしてみると悪くないのではないかと思うが、その発想にはならなかった。何か気乗りしないものがあったのかもしれない。

元々学力勝負の大学受験をする適性は私には無いと感じてはいたのだが、指定校枠による大学受験の選択肢もあり公立も視野には入れていた。しかしどちらも帯に短し襷に長しということもあり私立受験に舵を切った記憶がある。

最終的に決め手となったのは

ということで、自宅から比較的近い大学付属でかつ当時の私が入れそうなギリギリの学校を選定すると3つの学校が候補に挙がった。

・法政大学第二高校
・日本大学櫻丘高校
・日本大学高校

法政二高に狙いを定めていたのだが、11月に行われる駅伝の市予選に剣道部から駆り出された結果期末テストが散々で、内申点を落としたため断念。ちなみに駅伝では選考に漏れて補欠だったので完全に時間の無駄だったことも付け加えておく。

残るは日大付属の二校となったわけだが、日大高校に説明会に行ったときに妙にガタイの良い中学生が多く来ていたことから空気の違いを察知し、どちらかというと空気的にしっくり来た日大櫻丘高校を第一志望としたように記憶している。

リスクを取ればドロップアウトも。リスク回避すれば可能性は閉ざされる

ということでまとめると

・家庭環境から来る危機意識
・一発勝負のテストへの苦手意識
・公立高校が微妙
・直前のテストでやらかす

という様々な要因から進路が決まったということで良いだろう。

一発勝負のテストが苦手という致命的な弱点を踏まえて3年後に備えた進路を取ったのは現実的な選択だったとは思う。

ただ日大の付属高校、特に私の母校に関しては他の大学に進学するという選択肢は当時ほぼ無いので日大に進める権利をある程度固めた一方で日大以外の可能性に蓋をしてしまったという側面もあった。

つまるところ、日大櫻丘高校という選択をした時点で私の大学までの学歴は決まってしまったと言えるのではないだろうか。

まぁ父が婆ちゃんを泣かせ、兄が母をキレさせたという恐怖を踏まえリスクを避けたということは当時の殺伐とした西尾家に居た身としては当然と言えば当然だったと思う。

ということで、リスクの少ない選択をすれば可能性がある程度閉ざされるし、リスクある選択をすれば高校でドロップアウトする可能性もあるということを踏まえてこれをお読みの皆さんは高校選びをしてほしい。

ちなみにこの学校選びを後悔するのは、入学から僅か3か月後のことである。その話はまた別の機会にしたいと思う。断っておくが、その理由は勿論「女子棟に入れない」ことではない。

次回予告:メタバースにイマイチピンと来ない理由をClubhouse流行時と比較して考える


メタバースって最近よく取り上げられていますけど、正直どうですか?

私は今一つ興味が持てなくて、出来ることはすごいけどじゃあ自分がやろうかとは思わないんです。

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