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昭和良き時代の楽しい小学校生活日記 3

当時小学校には、日直の先生が居て、夜でも入れたので、花火を運動場で行っていました。おもちゃ屋だったので、花火をかなり盗んできて、皆には喜ばれました。
また、放課後、当時流行ったトランシーバーも、皆で取り合って楽しんでいました。
そのように、小学校時代は、おもちゃ屋の利点を100%活用していました。
ただ、本人はミニカーやプラモデルなどを外で買って来る事が多かったです。
プラモデルの取り扱いは無かったのですが、高価な物は安く仕入れられるので、確認するように言われました。
ミニカーに至っては、店にある物でも、百貨店で購入する事が良くあり、見つかっては怒られました。
なんか自分のお金で購入して、包装紙に包んでもらって、ありがとうございますと言われて、大人になった感じを楽しみたかったと思います。
どちらにしても、親父のポケット銀行もあり、お金には苦労した事がなく、浪費ぐせはそのころから付いたと思います。
その場が、過ごせれば、後はどうにでもなると言う感覚は、借金を残して亡くなったお袋譲りと思います。
私は、借金だけは子供に残したく無いと思っていますが...難しいかな。

4-5歳ぐらいの時に、生まれたての犬をもらいチーコと名付けて飼うようになります。メスの雑種犬ですが、見た目は白色の柴犬でした。
放し飼いで、物干し場に登ったり、駆け巡っていました。
また、駐車場にジャバラ門がありましたが、そこを抜けて、外で遊んだりしていました。
家の中では、廊下までは許しており、廊下を2階まで駆け上がったりして、尻尾を振って走り回っていました。
当然、ドックフードではなく残飯を食べさせる時代です。
外に散歩に連れ出す時には、丸紐(今はリード)を付けて行きました。
自転車に乗るようになってからは、自転車に丸紐を付けて走り回すと言う感じでした。道路交通法違反のようですので、注意してください。
小型犬には、結構多いと思いますが、ジャンプしながらスカート中に顔を入れるのが大好きでした。家の庭では放し飼いだったので、来た女の人は、よく餌食になっていました。親バカですが、チーコは可愛かったのでみんな喜んでいたと思います。
一度、チーコに殺されそうになった経験があります。
家の中から外に出る事は許されていたので、私が戸を出て、閉めた瞬間に追いかけて来て、戸にジャンプしました。扉ではなく、ガラス窓が付いていた引き戸でした。そのまま、引き戸が外れて倒れて来ました。私の真後ろでの出来事で、数センチ後ろに、ガラスが粉々に飛び散った無残なガラス戸が倒れていました。
もう少し早かったならば、ガラスの直撃を受けていたと思うと、ぞっとしました。
また、小学校6年生の時と思いますが、チーコが居なくなった事件もありました。
普通、家の中では紐で繋ぐ事はありませんが、倉庫への節句人形の搬入などでトラックが駐車場に入る時は危ないので繋いだりしていました。
たまたま、繋いでいる部分が外れて、首輪に紐が付いた状態で、外に出ていってしまいました。
たぶん、綱が付いたままだったので、どこかに連れて行かれてしまったと思いますが、帰ってきませんでした。
自転車で、毎日あちこちを探し回りましたが、見当たらずに、数週間経って諦めて来た時に、汚れて痩せこけたチーコが戻ってきました。
首輪が無かったので、どこに繋がれていて、首輪から抜けて逃げてきたのだと思います。
メスでしたが、当時としては珍しい避妊手術を施していたので、妊娠する事もなく、高校1年の時に、縁の下で亡くなっていました。
12年経っていたので、寿命を全うしたと思います。

また、一時期に猫も居ました。飼っていたわけではなく、最初は、チーコの餌を食べていましたが、チーコ分が取られてしまったので、2皿用意するようになったら、そのまま居着いてしまいました。
ネズミやコウモリを退治してくれたので、重宝していましたが、4年ぐらいで居なくなりました。
特に名前はなく、猫ちゃんと呼んでいました。
最初は、猫ちゃんが2階のベランダなどから、威嚇しておりチーコの方が負けていましたが、その内、喧嘩することもなく、自然といっしょに暮らすようになりました。
猫は嫌いなので、私の居た離れには絶対入れませんでした。
たぶん、猫ちゃんも分かるようで、私には寄ってくることは無かったです。
その後、私が埼玉に就職して居なくなった時から、実家では猫を飼うようになっていました。猫を観る夫婦の睦まじい姿は、過去の二人から考えられずびっくりしました。猫が二人の距離を近づけたのかなと思っています。
子供達も実家に行った時には、その猫を可愛がり、家でも飼って欲しそうでしたが、私は猫が嫌いなので実現しなかったです。
それどころか、埼玉の隣家が数匹の猫を飼っており、その猫による糞尿やエアコン配管や温水器配管への爪立て被害などを被っていました。
とりあえず、木酢液を撒いたり、超音波ねこ撃退器などを設置したりしましたが、効果は長続きしませんでした。
隣でも同様の被害があったようで、直談判したようで、家から猫が出れないような高い壁が作られ、同時に猫も減らしたようで、被害は減りました。
しかし、糞尿の後始末や車の上に足跡が点いたり、繁殖期にはうるさいなどの迷惑を受けています。
我慢しており、動物虐待と良く言いますが、人間虐待と思います。
飼い主は、子供教育と同様に周りに迷惑を掛けなくする事が、一番重要と思います。
小学校時代の話に戻します。
今とは違い、スカートめくりやピンポンダッシュや電車による手裏剣作りだったり、際どい遊びもありましたが、近所の怖いオジサンに怒られながらも、ゆったりとした楽しい小学校時代を過ごせました。
あちらこちらに草むらや木があり、かぶと虫や青大将なども居て、通学途中でそれらを触ったりしていました。
手を洗う事もなく、落として砂が付いたお菓子も食べるし、鼻が垂れても袖でふき取り、鼻くそは机の裏側に付けるし、衛生面では考えられない汚さでしたが、冬でも短パン、スカートで、みんな元気に登校していたと思います。
机や椅子は木で重く、暖房はストーブで周りだけが暖かく、当然冷房はなく、頻繁に出る光化学スモッグ警報時は、窓を閉めて蒸し風呂のようになっていました。
それでも、みんな元気?に、少々無理してでも登校しており、病気による学級閉鎖もありませでんした。
私も37.5度までは、平熱と思っており、おたふく風邪で、1週間休んだ記憶しかありません。
そのような昭和良き時代にも、一応娯楽施設が、歩いて20分くらい離れたところにありました。
お城の形が目印の四日市ヘルスセンターです。
浴場、食事できる演芸場、室内遊技場などが設置されており、子供から大人まで楽しめる四日市市民の憩いの場でした。
大人達は、浴場に入り飲食しながら演芸を、子供達は、勝手に室内遊戯場で遊び、家族で一日中楽しめました。
その室内遊戯場は、体育館のような2階建ての空間で、旅客機の前部分の模った2階の入り口から下に向かっての、長い滑り台があった記憶しています。
下から登る時は、大きな網ネットを伝って登ります。別途階段はありましたが、反対側だったので、登った方が圧倒的に早かったです。登っては滑ると言うルーチンを何回も繰り返して遊びました。
室内遊戯場だったので、雨が降っても平気でした。
その他にも、トランポリン、シーソ-、ジャングルジムなど種々の遊戯器具が設置されていたと思います。
子供にとって、一日中遊べる天国のような場所でした。
その後に卓球場やバッティングセンターも併設され、大人も楽しめた総合遊戯場になったと思います。
大人の付き添い無しに、子供だけでも入場できたと思います。
結構、子供同士で頻繁に遊んでいた記憶があるので、数百円の世界だったと思います。駄菓子10個分のイメージです。
数年後には、車で30分程度のところに、鈴鹿サーキット、長島温泉が立て続けに開業し、休日などには、みんなそちらに行くようになって、徐々に四日市ヘルスセンターには行かなくなっていきます。
高校の時に卓球場に行ったきりで、その後どうなったか知りませんでした。
NOTEを書き始めて、ネットで調べたところ、1994年 天然温泉ユラックスに変わり、車で20分くらいの郊外に移転して、現在では、四日市温泉 おふろcafé 湯守座になっているとの事でした。
後身の天然温泉ユラックスは、埼玉で就職結婚後、子供連れで実家に戻った時には、1日ゆっくりしていた温泉施設でした。
私が子供の頃、遊んでいた四日市ヘルスセンターが前身だったと知って、びっくりしています。
今では、許されないですが、午前中にサウナ浴で汗を出しきり、ビールの喉越しを楽しみながら、早めの昼食を取りながら演芸を楽しみます。
お風呂に入りほろ酔いになったら、レストチェアで昼寝をします。
その後、2回目のサウナ浴に突入して、お酒が抜けるまで頑張ります。
子供たちは、お風呂に浸かったり、演劇を観たり、コインゲームしたり、楽しんでいました。
当時、アルコールチェッカーも置いてあり、確認して夕方ごろに出て、外食をして実家に戻ると言う流れでした。
外食で思い出しましたが、長島温泉の傍に、目の前で動物が飼育されている動物レストランエルザがあり、プール帰りに行き、子供らは凄く喜んでいました。
ガラス張りなので、臭いはまったく無かったと記憶しています。ただ鳴き声は聞こえて来て、ジャングルの中で食事をしている錯覚に陥ります。
当時では、珍しかった骨付きステーキが売りで及第点だったと思います。
リーズナブルな価格だった記憶しています。
現在あるかは分かりませんが、もしあれば、混雑して話題になっているでしょう。
ユラックスは、夏季休暇の8月上旬は演劇は行わなくなり、舞台で歌えるカラオケになっていました。
カラオケが煩かったので、ゲーム場に併設する和室でくつろぐ事が多くなりました。そこの売店で作ってくれるネギ焼きが大好きでした。
広島お好み焼きのように、薄い生地に、たっぷりのネギと種々の具を乗せて、しょう油で味を付けたお好み焼きの1種です。
昔、叔父さんの寮で食べたネギ焼きを懐かしく思えました。
ヘルスセンター、ユラックスと2世代お世話になった事を知り、感慨深いです。
さらに、今のおふろcafé 湯守座 は、現在住んでいる埼玉に種々ある おふろcaféの姉妹店のようで、なにか深い縁も感じます。
孫家族みんなを連れて、新しい湯守座に行って、3世代で楽しめることを夢みています。


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