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思い出14  埼玉へ就職、初めて一人暮らし、独身時代 1

私がG社に就職したのは、西鉄ライオンズが西武ライオンズになり、本拠地が埼玉県の所沢に移った年でした。
埼玉に初めての野球チームがやって来るということで、地元は大いに盛り上がりました。
私は典型的な昭和っ子で、巨人・大鵬・卵焼きの世代でした。
名古屋場所の桟敷席で、大鵬対柏戸の取り組みを観戦したこともあります。
その時は柏戸が勝利し、座布団が舞い上がる瞬間を鮮明に覚えています。

ON時代の巨人対中日戦を数回観戦したことがありますが、パリーグでは日本シリーズに出場して、いつも巨人に負けてくれる阪急ブレーブスのイメージしかありませんでした。
巨人の輝かしいV9時代で、勝っている試合しか見ない典型的なジャイアンツファンで、勝利時にはスポーツニュースを全て追いかけます。

元巨人の捕手である森が西武の監督に就任してからは興味を持ち、会社帰りに良く観戦に行くようになりました。
優待券などもあり、土日はチケットを取ることが難しかったですが、平日は比較的簡単に入手できました。

当時の西武ライオンズ球場はドームではなく、屋根のない施設でした。
丘陵地を掘り下げて、その斜面を利用したスタンドがあり、環境に優しく低コストを売りにしていたと思います。

周囲は木々に覆われていましたが、松坂投手が入団した際に、花粉症対策のために裏の丘の杉を伐採した逸話は有名です。
屋根が設置され、ドームに改修されましたが、最初の頃は雨が降り込んで中止になることがよくありました。

全天候型ドームに改修され、メットライフドームとして知られ、現在はベルーナドームと呼ばれています。
しかし、未だに最寄りの電車の駅名は西武球場前のままです。

球場の近くには多摩湖や西武遊園地などがあり、老若男女が楽しめる狭山丘陵エリアとなっています。
休日には周辺道路が常に渋滞します。

野球観戦には、電車での移動が便利でした。
車を寮に停め、そこから電車で移動することがよくありました。
西武球場前駅は寮から2駅目でした。
ちなみに、夕方には多摩湖畔でデートし、そのまま近隣のモーテルに泊まるのが定番でした。
また、西武ライオンズ時代では、所沢および西武グループで毎年優勝セールが行われ、頑張れタブチ君を楽しんだりして、ライオンズ全盛時代を楽しみました。
また、入間基地の近くの稲荷山公園は花見が有名で、毎年、会社の有志メンバー20名程度で、楽しんでいました。
入間基地では、年1回航空ショーが行われており、子供が小さい時には毎年観に行ったものです。
夏の七夕祭り、秋の入間万燈まつり、冬の秩父夜祭りもあり、年間通して何らかの楽しみがありました。
これらの楽しみが、コロナで止まっていましたが、終焉して祭りなどの活気は戻りました。しかし、花見などの宴会は、場所取りなどの準備が面倒で、有志も集まらず復活していないのは残念です。
近年、ムーミンバレーパークもでき、車で30分以内の場所に、自然の中で楽しむスポットも増えていますが、昔のように、バカ騒ぎをして盛り上がる催しが減って寂しく感じているのは、定年になった私だけかもしれません。
そのような郊外の工業団地に、G社の武蔵工場があり、そこに勤務することになりました。
西武線のI駅からバスに乗り継ぎ、バス停から歩いて15分ほどの坂道を登った工業団地内に位置しており、公共交通機関を利用するのは大変でしたので、多くの人が車通勤をしていました。
一時期、チャーターバスを導入して、借りていた駐車場をなくそうという提案もありましたが、皆が反対し、結局は現在ではお客様用や社用車を含め、約120台の駐車スペースが埋まっています。
今年、新たな隣地を取得して、新しい建物を建設する計画が進行中であり、さらに総合技術本部として拡張される見通しです。

初めての一人暮らしになりますが、アパートが4月の第2週に空くことになり、その間は会社の寮に2週間お世話になります。
元々は、この場所に所沢工場があり、現在の武蔵工場に移転した際に、更地の住宅用地に変更し、一部を寮として残し、残りは売却されたようです。
数年後には、その寮も売却され、新興住宅地となります

当時、寮に住めるのは、寮長以外は、高卒で入社3年以内だったので、先輩でありながら、年齢は下という一番打ち解けやすい同年代の方々でした。
アパート暮らしになってからも、その先輩方に色々とお世話になったので、2週間の寮生活は良い経験になりました。
寮と言っても、台所やトイレ、お風呂は共同で、2階には2段ベッドが設置され、4畳半ほどの部屋が6室あり、1階には8畳の寮長室、共用の10畳ほどの畳の大部屋が2室、ダイニングキッチンの10畳ほどの洋間、共用風呂、トイレという、大きめの普通の家を改造した寮でした。
私の同期入社は、修士卒の0さんと私(開発2名)、大卒のN君、M君、R君、MZ君(営業4名)、S君、高卒のON君(工場2名)、女性のTさん(工場総務)の9名でした。
私の社員番号が85番で、約70名の会社でしたので、新人9名を入れるということは、会社が成長していた証だと思います。

開発が2名になっているのは、無理やり私を開発部に配属したのだと思います。
入社式の翌日から、武蔵工場で新人研修が2週間みっちり行われます。
総務配属のTさん以外は、2週間の研修を受けることになり、地方の営業配属で通えないM君、R君、MZ君は、寮に泊まり、本社勤務のN君、開発のOさん、武蔵工場勤務のS君、ON君は、アパートから通っていました。
私を含めて、4名で共用の大部屋に雑魚寝になります。
マイナーなクロマトグラフィーという分野で、どんなものかわからず、触ったこともないというのが現状です。
そのため、新人研修では、クロマトグラフィー装置を使って、実際に分析しながら、その理論と実際の使い方を勉強するという専門的な研修になります。
各種の研修ごとにレポート提出が必要でした。
研修で得られた結果をグラフや表などにまとめて、考察などを行うという、かなりきちんとした個別報告書の提出が要求されていました。
クロマトグラフィー経験者は修士卒のOさんだけで、寮に来てもらい、皆でレポートを作成しました。

実際には、Oさんが作ったレポートを写して、少し順番や言葉を変えて、各自のレポートにしました。
Oさんのおかげで、新人研修は楽しく乗り越えられました。
福島工場が完成後は、東日本大震災の年を除いては、新人研修は、メインである福島工場で行われるようになります。
毎年の新人の恒例行事となりました。
しかし、コロナ禍により研修自体が中止となり、現在では3日間程度に縮小されています。
配属されるとバラバラになるため、同期が集まって親密に行われる2週間の新人研修は、親近感が高まり役に立っていたと思います。
縮小されたことは残念に感じています。

優秀なOさんのおかげで無事に新人研修を修了し、開発部に配属されます。
当時、開発部は、装置設計を担当する機械電気のHA係長、TEさん、KOさん、消耗品開発を行う化学のTOさん、全般の作業フォローを行う高卒のKAさん、そして開発部長であるYA部長の6名で、開発事務所兼作業場がプレハブの2階に設けられていました。
新人の役割として、朝のコーヒー出し、昼のお茶と味噌汁の準備と弁当運びです。
朝は、ヤカンでお湯を沸かして、始業の9時までに、各自のカップに、インスタントコーヒーを作って各自の机に出すことが朝の日課になります。
最初は、各自の好みを覚えるために、コーヒーの濃さやクリープ有無、砂糖量などを聞きながら、慣れていきます。
昼は、総務棟一階に配達された弁当を、開発注文分を2階の事務所に運び配膳します。
弁当には、インスタント味噌汁が付いており、それも作り、お茶と合わせて配膳します。
12時15分の昼食までに間に合うように、Oさんと2人で行いました。

当初は、二人で順番に入れ替えて行っていましたが、私が弁当の数をよく間違えてしまうので、Oさんが弁当を運ぶ役になりました。
今では考えられない昭和時代の新人あるあるです。
当然、今では来客時以外は、各自が自分で行っています。

当時は、3年で一人前という考え方があり、3年目でボーナスが100%支給になるというG社独自の制度がありました。
1年目の12月に60%、2年目の6月に70%、12月に80%、3年目の6月に90%、12月には満額支給となるという制度でした。
数年後には、普通に1年目から100%支給で、6月は月割りに変更されていますので、私たちはこの制度の犠牲になった最後の世代となっています。
特に、最初の6月のボーナスは、5万円というわずかな額で、支給日の6月1日には、先輩に連れられて、ソープランドに行くというのが、当時の慣習でした。
入口で入浴料を5千円払い、中で女性に直接2万円支払うという形式でした。
7時過ぎに入店して、1時間弱待たされました。
この初めてのソープがオバサンで、思い通りにいかず残念な経験になり、鮮明に覚えています。
そのような事もあり、ソープはこれが最初で最後になりました。
ファンションヘルスやノーパン喫茶、キャバレーや濃厚サービスのスナックなど、建前上は本番禁止でしたが、多種多様な風俗があり、様々な楽しみがあった良き時代でした。
しかし、エイズの流行もあり、当時3軒あったソープランドは、今では1軒しか残っておらず、寂しく感じます。
武蔵工場まで車で約10分の場所にアパートがありました。
台所、風呂、6畳一間のアパートで、2階の角部屋でした。
大家さんは隣に住んでおり、アパート代や光熱費を現金で払いに行く形でした。
修理などもすべて大家さんが対応してくれて、便利でした。
駐車場は駅の近くにあり、アパートから徒歩8分ほどでした。
駐車場からアパートまでは自転車を使って移動していました。
1979年当時で、家賃は月22,000円で、駐車場は3000円でした。
初期の敷金は3万円で、礼金は1万円でした。
更新は2年ごとで、更新敷金は2万円でした。
保険などは大家さんが支払っており、2回の更新で据え置きで安くて良心的でした。
5年後に出来ちゃった結婚で引っ越すまで、このアパートに住みました。
入社前にアパート探しに付き合ってくれたのは開発のTEさんでした。
TEさんは3年先輩の大卒で、電気設計を行っており、歩いて5分ほどのアパートに住んでいました。
その先輩の送迎が日課になります。
今では、敷金や礼金は会社負担ですが、当時は自己負担だったので、できるだけ安いアパートを選びました。
先輩からのプレッシャーは感じませんでした。
アパートが2週間も空かないことを知り、寮に泊まることを提案してくれたのもTEさんだったと思います。
駅を頂点とした2等辺三角形の配置になります。
2人のアパートの中間地点に、これから行きつけとなるスナックがあります。
自転車でアパートから駐車場に行き、車に乗り換えて、朝8時30分までにTEさんのアパートに迎えに行くのが日課になります。
武蔵工場まで、10分前後だったので、45分くらいには、作業服に着替えて、事務所で朝のコーヒー出しの準備して、始業の9時までには配り終わっています。
最初はOさんも電車通勤だったので、私の方が先に着くことが多かったです。
帰りに関しては、夕方6時頃に帰る際には、TEさんも一緒に車に乗せて帰ります。
駐車場に車を置いて、歩いて飲食店に連れて行ってもらうことが多かったです。
普通だと、居酒屋などで飲食して、さらに飲みたい時には、2次会としてスナックなどに行くのが普通だと思いますが、TEさんは最初からスナックでした。
ウィスキーボトルがキープされており、確かリザーブだったと思いますが、最初からストレートで飲み始めます。
煙草をつまみに、ほとんど食べずに、飲み続けます。
私の方は、唐揚げや焼そばなどを食べながら、水割りを飲むことになります。
当然、スナックですので、食事系のつまみは結構高価で、連れられていくと、毎回5千円以上かかり、ボトルを入れる場合には、確実に1万円を超えており、先輩のTEさんが奢ってくれていました。
給料のほとんどは、スナック代に消えていたと思います。
私が一緒でない時も、ほぼ毎日飲んでいるようで、午前中は二日酔いで使えないということもよくありました。
それでも許されていたのは、電気設計としての技術力が高かったと思います。
私は化学専攻で畑違いだったので、実際のところはわかりません。
このように、TEさんと飲食することが多く、自然と酒を飲むときに、ツマミは食べなくなります。
今でも、宴会などでは、あまり食べません。
入社した時の体重は85kgありましたが、1年後には60kgの標準体重まで落とせました。ただし、入社時に購入したスーツやワイシャツなどはブカブカになり、さすがに使えなくなりました。
体重がここまで変わると、靴のサイズも変わってきます。
大学時代の100kgのときは27~27.5cmでしたが、入社時の85kgでは26~26.5cmでした。そして60kgになってからは25~25.5cmになりました。
最近は少しずつ体重が増えていますが、一応60kg台を維持できています。
時間が合わず、別々に帰る事も多かったです。
すでに、コンビニはありましたが、弁当などの食事系は充実しておらず、主に定食屋で食べて帰ることがほとんどでした。
寮でお世話になった同年代の先輩方と一緒に食事に行ったり、野球観戦に行ったりすることが多くなりました。
当然、同年代なので割り勘で気分的にも楽でした。
また、Y部長に、「ステーキのどん」に数名で連れられていくことも、結構ありました。
YB部長は、会社から車で30分程の実家に住んでおり、生涯独身でした。
会社設立メンバーではない埼玉出身の新参役員で、M社長、YM専務、YK常務とは異なりました。
車を持っていない皆を乗せて送り届ける人が必要で、車通勤であった私は誘われることが多かったです。
Y部長も車を所有していましたが、皆一緒に乗るのは、さすがに嫌だったと思います。
結婚するまでの3年間ほどは、不定期ですが、月に1回ほど、そのような食事会に連れられました。
Y部長の口癖は、「仕事は慣れたかね?」でした。私を含めて、5年経っても言われ続けられました。
時には10人近くが集まり、数万円規模の支払いもありました。
すべてYB部長の奢りで、半年ほど経った後は、自分で出す意思表示をしましたが、結局は引っ込めて、ごちそうさまの一言で済ませるというあるあるの典型でした。
当時の役員の方々で、御尊命なのはYK常務だけというのは、寂しく感じます。
また、開発で電気設計を行っているHA係長とTEさんに連れられて、飲食に行くこともありました。
1軒目では私の仕事の話や和気あいあいとした雰囲気でしたが、2軒目のスナックではHA係長の酒のペースが急に早くなり、酔ってきていました。
初めての時は、HA係長が酒乱であることを知らずに驚きました。
私は、HA係長とTEさんの間に座らせられ、HA係長は、罵りながらTEさんに手を出そうとします。
私は、TEさんを防御しながらHA係長を宥めると言う役目になります。
HA係長が酒乱になる前に、TEさんがを酔い潰れてしまえば、ぶつからなくなる事がわかりました。
私とHA係長では、専門が違うので、無理難題を言われても糠に釘のように流せ、お互いに接点が無いので、ぶつかる要素がありませんでした。
当時は、そのようにぶつかる関係の上司も居なかったので、逆に憧れました。
ただ、HA係長は、パワハラ上司である事は間違いなかったと思います。
上司との関係も悪かったようで、数年後には退社しています。
しかし、昭和時代の飲み会では、酒が入ると気が大きくなり、さまざまな小競り合いがあり、ある意味盛り上がりました。
私も酒で気が大きくなり、宴会での女装姿のまま街に繰り出したり、結構馬鹿をしていました。
今では、目立つとすぐにSNSに投稿されて、デジタルタトゥーになってしまう怖い世の中になっています。
私の憧れの紗倉さんも、酒の席ではさまざまな問題を起こしているようで、その姿も可愛いと思います。
当時は、様々な形での飲み会が頻繁に行われ、無礼講で上下関係なく怒号も飛び交いましたが、仕事に持ち越すことなく、翌日に関係が悪化することはありませんでした。
今では、ハラスメントに当たる行為が満ちた飲み会でしたが、亀裂が入ることもない、良き時代でした。
話を戻しますが、HAさん、TEさんと3人で行ったスナックが私のお気に入りになりました。TEさんのアパートと私のアパートの中間地点にある南条というスナックでした。
いつも行っていた駅近のスナックは、暗い雰囲気で、水商売のようなママさんがいて、ツマミ類も乾き物か冷凍のべちゃっとした唐揚げやポテトフライ、美味しくない焼きそばなどで、個人的には好きではなく、一人で行くことはありませんでした。

お気に入りになった南条は、カウンター席が8席、テーブル席が5席の二つあり、カラオケもある典型的なスナックでした。昼間には喫茶店としても営業しており、スナックらしくない明るい照明でした。ママさんは40歳ぐらいで、何でもズバリと物を言いますが、優しさも溢れていました。また、作る料理がすべて美味しかったです。南条という名前は、南海を書いて「なみ」という名前で、京都出身であることから名付けられました。
店には30歳ぐらいの女性2人と、20歳?の大学生バイトの“のりちゃん”がいました。
のりちゃんは、午後10時に帰るので、入れ替わりに1名が来ると言う形で、3名ぐらいが常時いました。
アットホーム的な店の雰囲気とのりちゃんが気にいり、一人でも行くようになります。
初恋の女性がのりこで、同じ名前であることも一因と思いますが、のりちゃん目当てで通いました。
ちなみに、長女にも、同じ“のりこ” と言う名前を付けています。
のりちゃんは1年半ほどで大学が忙しくなり辞めてしまいましたが、その後も、南条に3年半通いました。
ウイスキー代、お通し(席料)、水、氷代、ツマミ価格も書かれており、駅近のスナックとは違い、明瞭な会計が行われました。当時はカラオケ全盛期で、5曲チケット1000円を購入して使うという良心的なスナックでした。
私は小学校の時に音痴であることが発覚してから、人前で歌うことを拒んできました。
クラス対抗合唱コンクールで、同級生の女の子が一生懸命教えてくれましたが、それでも音程がズレてしまい、彼女を泣かせてしまった経験から、音痴が発覚しました。
そのため、人前で歌うことは絶対にありませんでした。

しかし、そんな音痴な私と一緒に歌ったりして盛り上げてくれて、音痴ながらも楽しくなりました。
そのお陰で、音痴で周りには迷惑を掛けますが、人前で歌う事もできるようになりました。
そのように、スナック南条を気に入り、自分で、ボトルキープをするようになり、TEさんが居ても、別会計で楽しむようになります。
良心的な価格とはいえ、普通に飲食すると最低でも3千円はかかります。
ボトルを入れると1万円近くになります。
そこで、節約のために自炊を始めます。
朝は炊飯ジャーをセットし、帰りにお惣菜屋などでおかずを買ってきて夕食を済ませ、夕食中にお風呂を沸かしておきます。
8時半頃からスナックに行って、のりちゃんが帰る10時頃まで楽しんで、帰ってお風呂に入り、睡眠するというのが日課になりました。

ツマミは、お通しとポッキーのみで、ロックで飲むようになりました。
ポッキーをロックのウイスキーに突き刺して、チョコレートの良い香りを感じながら、のりちゃんと他愛もない会話をしながら、ちびちびと飲みました。
ボトルを入れない限り、2千円前後で済んだので、定休日の日曜日以外、ほぼ毎日通うようになりました。
金曜日は、歌って閉店の2時まで居ることも多かったです。
他の常連さんとも仲良くなっており、私の音痴な不協和音だらけの歌も受け入れてくれました。
特に、のりちゃんにプレゼントをしたり、個人情報を聞いたりするわけではなく、結局は南条というスナックの雰囲気を楽しんで、のりちゃんを応援していたと思います。
現在の紗倉まなさん推しの予行練習だったと思います。
更に、5分くらい奥に行ったところに、オバサンだらけのスナックがありました。
真ん中にステージがあり、すべてテーブル席で、横に座って接客するというスタイルでした。
スナックと言っても、ほぼキャバレー並みの接客でした。
関東に就職して、こちらに出てくる友人が来た時には、必ず行きました。
私ら20代の若者は珍しく、オバサンたちにモテて、書けないような色んな濃厚な接客をしてもらえました。
安くて、皆満足していましたが、ただ、3年足らずでなくなりました。
本社は新宿でしたが、高価なため、所沢から通勤する人も結構いました。
特に、持ち家の場合だと、所沢近辺が多かったです。
そのようなことで、所沢に集まって飲む機会が多いです。
新年会、歓迎会、忘年会などの大人数の宴会では、大きな宴会場のある居酒屋“ひょうたん”を利用しました。
個別な飲み会でもよく利用し、G社の人間がいることがほとんどでした。
同期のOさんのアパートも所沢にあり、そのアパートや近くの黒ひげというスナックにも頻繁に行きました。
スナック黒ひげは、地方にしては洗練された雰囲気で、料金はやや高めでしたが、若い女性が隣に座って、濃厚な接客をしてくれました。
お金に余裕があれば良く楽しんでいました。
残念ながら、18歳の女性を使っていたと摘発されて、閉店したと思います。
その他にも、都内から流れてきたノーパン喫茶なども、駅から離れた場所に、ひっそりと存在しており、濃厚なサービスを受けられ、かなり楽しめました。
風営法の強化やエイズの流行前の楽しい時代でしたが、今ではほとんどが種々の規制に引っかかります。
それでも、楽しい思い出がたくさんあります。昔のような規制のない良き時代に戻りたいと思います。


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