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思い出7 中学校時代の思い出

小学校高学年時、精神疾患になった親父の妹である叔母が入院することになります。
祖母は、世話をする入院する精神病院の傍に引っ越していきます。
そのため、私は、お袋側の叔母さん達にお世話になります。
中学校になると、私の部屋は2階の一番奥の洋間になります。
離れは、家庭教師などに勉強を教わったりする客間になります。

四日市市内小学校2.5区が集まる中部中学校に進学します。
1学年220名の5クラスで、3階建ての建屋でした。別途体育館とプールがありました。
プールは、小学校の時に、週1回バスをチャーターして体育の授業で使っていたので、馴染みはありました。
ジャイアン的存在の呉服屋の息子のM君、スネ夫的存在の靴屋の息子のT君、のび太的存在になる私と言う 同じ小学校の友達もそのまま同じ中学校になります。
その他に、親父が検察官のため2~3年毎に引っ越ししてしまうS君、スポーツ万能なU君、母子家庭に育ったM君など、様々なバックグラウンドを持つ子供たちが異なる地区から集まり、新たな友人ができました。
窗体底端
2017年と2023年、それぞれ73名と48名の同窓生が集まり、四日市で泊まりがけの中学校3年生同窓会が開催されました。
18名の物故者がいましたが、これが多いか少ないかはわかりませんが、かつての同級生が集いました。
特に2017年の還暦を迎えた同窓会では、30~35年ぶりの再会となり、かつての親しい友人であるM君やS君と昔話に花が咲き、最高のひとときを過ごしました。

検察官の息子であるS君は、実際には中学校2年生の時に、金沢に引っ越しましたが、幹事の配慮で3年生である同窓会に参加できました。
S君は、温和でいつも優しく声を掛けてくれるジェントルマンと言うイメージです。
聞き役に徹してくれるので、自分をさらけ出してしまいます。優秀でありながら、決してそれを誇示することなく、丁寧に様々なことを教えてくれました。
なぜ、こんな身勝手な私と友達になってくれたか、未だにわからないですが、私にとってオアシスのような存在でした。
3年生の時に転校していますが、その転校先の金沢に遊びに行った事もありました。
金沢市内の観光を楽しみ、彼の家に泊まって1泊2日の素晴らしい時間を過ごしました。
紗倉さんが言うように、「仲の良い相手との会話は、覚えていない」という言葉がありますが、それは本当にそうだと感じます。
中学生時代だったので、他愛もない会話だったと思いますが、覚えていません。
ただ、S君の両親は優しそうなお父さんと控えめなお母さんで、彼からその姿をイメージすることができます。
彼らの家は全体がクリーム色に統一された美しいダイニングで、食事は私にとっては薄味でしたが、その温かさが今でも思い出されます。
また、S君と一緒に兼六園や金沢市内を楽しく探索しました。特に、九谷焼の実演はその色合いの美しさが脳裏に焼き付いています。
当然のように、東大卒業し裁判官になっていました。蛙の子は蛙です。
その出世頭なのに、昔と同様に楽しく話してくれて、私にとっては、今でもオアシス的存在でした。
無理してでも、同窓会は参加した方が良いと思います。
70歳同窓会も開かれるならば、ぜひ参加したいと思います。

中学校の話に戻します。
中学校は、歩いて20分ぐらいの場所になるので、買い食いなどの道草は普通になります。
確か、30分以上かかる場合は、自転車通学が許可されていたと思いますが、許可されない距離でした。
校則では丸刈りが義務で、バリカンを使った5分の丸坊主が標準でした。
当時は、帆布製の肩掛けカバンを斜めに掛けての登校でした。
昼食は弁当で、学校の前にパン屋があり、校内でもパンが売られていましたが、弁当を持参する生徒が多かったように思います。
弁当を温めるための保温箱がありました。6段ほどの網棚で区切られ、一番下に電熱器のようなヒーターがあったと記憶しています。
アルマイト製の弁当箱をその中に入れて温めますが、置き場所は先着順であり、下の段だと熱くなり過ぎて取り出しが大変でした。
一方で上の段だと温まりにくかったです。冬場は温かいご飯の匂いが漂い、お腹を刺激するような美味しい匂いが学校中に広がっていました。
窗体底端
また、昼を待たずに、3時間目授業が終わり次第、食べ始める早弁も日常の出来事でした。弁当保温箱のおかげで、匂いで気づかれることはありませんでした。
当時はエアコン設備はなく、夏は窓を全開にし、冬は大きな石油ストーブが使われていました。
朝礼で倒れる人もいましたが、体力不足として片づけられていました。
廊下で走り回ったりして楽しんでいましたが、怖い先生が現れると一瞬で静まり返りました。
怖い先生以外に、独特の変な先生もいました。
数学の先生は、沖縄が日本に返還される前に訪問しており、約半年間、授業中に海外だった沖縄に行った話を毎回自慢している先生でした。
教え方はうまくて、私が数学を好きになったのは、その先生のお陰でした。
また、数学の平均点が私らクラスだけが悪くて怒られていた時に、自分だけ点数が良くてニコニコしていた時に怒られました。
普段、見た目以外は目立たない生徒でしたが、その時だけ注目されたので、鮮明に覚えています。
また、風貌が半魚人っぽい社会の先生も有名でした。
完全に自分の世界に入り込み、勝手に授業を進めていき、生徒の方は見ていなかったので、静かならば、どんな事を行っていても怒られませんでした。
風貌からボケ老人っぽくて、皆から馬鹿にされていました。
3年後、三重大に入学した時に、世界史の講師になっていました。たぶん、知識力が凄すぎて、中学校向きでは無かったのだと思います。
大学では、大きな世界の流れの中で、当時の情景が浮かんでくるような歴史の説明でした。
中学校の時に、馬鹿にしていた先生の知識力に感嘆しました。
個性的な先生の陰口を叩きながらも、基本、先生は怖くて尊敬もしていたので、秩序がありイジメなどの問題も生じない昭和良き時代の中学校でした。
1年生は、どこかの部に所属する必要があり、美術部に入りました。
夏休みに、大王崎でのスケッチ合宿があり、初めて外での写生を経験しました。
男女 十数名で、旅館に3泊したと思います。
昼間はスケッチをして、夜は海岸線で花火大会をしたりすると言う遊び中心の合宿で、楽しみました。初日、男の脱衣所から、女風呂が覗けたので、皆交代で楽しんだのを覚えています。
翌日には観られなくなっていましたので、気づかれたと言う事と思います。
スケッチは、水彩画でしたが、校内で行うデッサンは油絵中心でした。
一応、道具も揃えて一通り経験はしましたが、デッサンがうまく、絵画に興味があるわけでなく、すぐに幽霊部員になり、帰宅部になります。

また、中学の成績は惨憺たるものでした。
小学校時代は、音楽・体育・国語 以外は5(当時 5段階)で、図工で表彰もあり、末は博士か大臣かと言う神童と呼ばれていましたが、中学校に入った瞬間に化けの皮が剥がれてしまいます。
お袋は、当時少なかった短大相当の女学校出身だったので、商売を継がせる気はなく、大学進学をさせようとしていたと思います。
ただ、両親から勉強しろとか、成績に関して何か指摘された記憶はありません。
1年生の最初の中間試験が、220人中で180~200番の間だったと思います。
四日市地区の進学高校として、偏差値75以上鈴鹿高専(5位以内)、偏差値70以上四日市高校(30位以内)、偏差値60以上桑名高校(50位以内) 公立進学校のトップ3になります。私立高校として、四日市高校に落ちた人が行く、暁(40位以内)や海星高校(60位以内)がありました。
60以内に入り進学校に行く事が大学進学への早道と言う事になります。
そのため、お袋は家庭教師を付けました。
1年生の時は、女性の家庭教師でしたが、成績が特に改善されず、常に120番から150番の間でした。
紗倉さんのような家庭教師だったならば、別の意味で、もっと一生懸命に勉強をしたかも知れませんが、私は基本的に勉強が嫌いでした。
家庭教師からの復習もせず、覚えることもなく、成績は上がりませんでした。
就職後も会社の上司を含めて名前を覚えるのが苦手です。
今では覚えられなくなり、物事の名前も出てこなくなるばかりで、ボケた老人のようになっています。
基本勉強嫌いで、家庭教師からの復習もせず、覚えることもなく、成績は上がらなかったです。
それは就職後も同じで、会社の上司を含めて名前を覚えるのが苦手です。
今では覚えられなくなり、物事の名前も出てこなくなるばかりで、ボケ老人のようになっています。

中学校2年生から、新しい男の家庭教師に変わりました。
私に暗記させる事は諦めて、時間は掛かりますが、その場で考えて解く方法を徹底的に教えられました。これにより、数学などの理系科目や長文問題の解法を理解する楽しさを覚え、成績も一部ですが急激に向上しました。

成績が上がるとともに、嫌いだった暗記も行うようになり、中学3年生の初めには100位以内に入り、夏休み明けの中間試験では50位以内にランクインしていました。
進学校を選ぶ際には、担任教師からは公立の桑名高校から私立の海星高校へ進むことが勧められました。
しかし、母親は私の勉強嫌いを考慮し、大学進学までの道のりを考えて、千葉にある私立の麗澤高校を受験することにしました。
麗澤高校は全寮制の学校で、授業料も高かったと思います。入学試験は筆記試験、個人面接、親も含めた面接があり、典型的なおぼっちゃま学校でした。
偏差値も高かったと思います。コネもあったかもしれませんが、合格しました。
それで、公立は、成績よりワンランク上の四日市高校を受けることになりました。
合格しないだろうと言う事で、麗澤高校での寮生活に向けて、準備などは進められました。
皆の予想を裏切り、四日市高校に合格しました。
高校時代の思い出は、またNOTEにアップしていきたいと思います。

中学校時代、私は『巨人の星』、『カムイ伝』、『あしたのジョー』などの漫画に夢中でした。当時は漫画とアニメの両方を楽しむのが一般的で、作家の尊厳が保たれ、アニメ化されても今のような問題が発生することはありませんでした。漫画を心から愛する時代であり、実写版もあったものの、別物として考えていました。
個人的に、実写版に感動したのは『ヤッターマン』ぐらいでした。
違う意味では、ハレンチ学園やキューティハニーは楽しめました。

中学2年生の時に開催された大阪万博は、東京オリンピック以上の一大イベントでした。
私たちの学校でも課外授業の一環としてバスをチャーターし、万博に行きました。
名阪国道を使って約2時間かけて、朝7時頃に出発し、10時から3時まで楽しんだ後、夕方7時頃に帰宅したと思います。
私たちは5人ずつのグループを作り、自由行動でパビリオンを回り、集合時間までに戻るという流れでした。各自が行きたい場所が異なるため、効率的なルートを計画するために様々な議論が行われました。
行きたいところが皆違うし、人気パビリオンの場合は待ち時間が生じるので、どのようなコースで効率よく廻ると言う計画作成は、喧々囂々として話し合いが繰り返されました。
最終的には、一番の目玉であった月の石は諦めて、代わりに、赤軍目玉男が8日間占拠して人が出た太陽の塔を見る事にしました。
後は、色んな国のパビリオンを回ると言う世界散歩を目標としました。
当然、課外授業なので、グループ毎の成果発表は必須でした。

太陽の塔は期待していましたが、なんか暗くてイマイチだったと言う記憶があります。
それに比べて、アフリカのパビリオンの音と光は、これまで見たこと事が無く楽しかったです。
また、後ほど個人で行った時かも知れませんが、気候をテーマにしたパビリオンは、その内容および画像も迫力があり、凄く楽しかったです。
ヨウ化銀を空中に散布して、シードにして雨にすると言う方法を分かり易く説明し、映像技術で実際の雨が降っているように見せてくれました。
まったく目的は違うが、就職後シード重合方法での製品化の検討も行うのもなにかの縁だったのかも知れません。
無事、課外授業は、終わりますが、計画作成および報告発表資料の作成などグループでのやり取りが一番楽しかったと思います。
夏休み中ですが、祖母と3日間万博に行っています。
旅館やホテルは、満員で取れなかったので、素泊まりの宿を利用しました。
共同の風呂、トイレでしたが、万博会場まで阪急電車一本で30分だったので十分でした。
祖母は、熱中症だと思いますが、初日でダウンしており、その後は私一人で会場を回る事になります。
月の石やタイムカプセル(その後の行方はどうなったのか気になりますが・・)、そして今でも話題に上る人間洗濯機など、たくさんの展示物を生で見ることができました。
大型の映像や360度のスクリーン、宇宙船シミュレーション、動く座席によるリアルな体験など、今では当たり前のようになっているアトラクションを初めて楽しむことができました。
また、動く歩道も当時初めての実用化だったそうです。
特に鮮明に覚えているのは、ガスパビリオンです。他のパビリオンでも立体感を楽しむことができましたが、ここでは大画面と音の効果が相まって、クレイジーキャッツの笑いが溢れるシンフォニーに大いに笑いました。当時、有名ではなかったドリフターズも出演していたと思います。もし映像が残っていれば、また見たいと思います。
確か、まだ有名になっていなかったドリフターズも出ていたと思います。
もし、映像があれば、また見たいと思います。

また、光ファイバーに初めてあったのも、大阪万博でした。今では、通信や医カメラなどに普通に使われていますが、糸のように細い変哲もない長いチューブの端に光が出てくる不思議には感激しました。
そして、社会人になった時に、この光ファイバーの材料である溶融石英を使った分離技術に携わる事になるのも運命だったのかも知れません。
そのように、大阪万博は、ネットも無い時代において、新技術を直接体験できる良い機会でした。

中学校3年になると思春期に入り、身長だけでなく横にも太くなり、完全な肥満児になっていました。
エッチなことへの興味も増し、深夜のテレビ番組である『11PM』や『23時ショー』、『ハレンチ学園』、そして『コント55号』の『野球拳』、『独占男時間』などを食い入るように観ていました。

その中で、本屋で立ち読みした “サスペンス&ミステリー SMマガジン“に完全にはまり、日活ロマンポルノに熱中するまでの期間は、毎月購入しました。
SMをテーマにしたエロ小説で、挿絵もかなりエロティックでした。写真はなく、学生でも手に入れることができたので、成人向けの雑誌ではなかったと思います。
怪しい生写真応募を行ったのもその頃でした。
その住所あてに、1000円分の切手を同封して送ります。
すると、あの部分だけが切り取れている生写真1枚と、無修正写真の価格入りチラシが送られてきました。
最低1万円での振り込みのため、手が出なかったので、そこまでで終了しています。
もし手頃な金額ならば、購入していたかもしれません。
その後、ビニ本ブームなどが訪れ、次にアダルトVHS時代を経て、今では紗倉まなさんファンに落ち着いています。
私にとって、この「サスペンス&ミステリー SMマガジン」は原点でした。

また、中学時代には、甘味料のチクロが発がんの疑いで中止になりました。
昔からある甘い粉ジュースや安価なジュース自販機が軒並みなくなり、あのガツンとくる甘さのジュースを懐かしく思います。
舌が原色に染まるジュースを良く飲んでいたが、生き永らえている事を考えると、本当にそこまで規制が必要だったか検証が必要ではないかと思っています。
何でも許された昭和時代に、学生生活を謳歌できたのは良かったと思います。

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