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映画鑑賞によって希死念慮をなんとかしていきたい

 私は長年、希死念慮が強いことで悩んできた。
 小学生だったとき、クラスではしょっちゅうイジメの対象になっていた。自宅では母親から日常的に肉体的暴力を受け、父はたいてい不在だった。家出してみても、自活していける年齢ではない。逃げ道として有効なのは自死ということになる。実際、何度もひとおもいに死のうかと考えた。
 苦痛を味わっただけで半身不随になるのが怖くて、実際に自殺未遂をしたことはないのだけれど、深酒をしていると、やはり死のうかどうかと考えはじめる。自殺者は多くの場合、酒に酔っていたり、不眠に苦しんだ果てに自死をやりとげたりした人々なのだと聞いたことがある。容易に理解できることではないだろうか。平常心があったら、あれこれと考えてしまって、なかなか自殺を決行できなくなる。死ぬほど眠いか、死ぬほど酔っているからこそ、ひょいと一線を超えて死ねるのだ。
 死にたい私を食いとめてきたのは、文学や芸術や娯楽のたぐいだった。私は幼い頃から並外れて知的好奇心が強かったので、気に入った創作物を摂取していると、もう少し生きていても良いかなという気分になった。もっと貪欲にたいらげないと、死んでも死にきれないという気分になったこともある。だから、文学や芸術や娯楽の「効用」にとても感謝している。
 創作物の「効用」──この考え方が、文学の専門家などのあいだで不人気なのは残念なことだといつも思っている。「役にたつ文学」のような考え方は、自己啓発本のようだとして斥ける文学愛好家が、非常に多いのだ。日本で文学雑誌や純文学の単行本の市場が衰退しつづけているのは、もっともなことと言うほかない。文学愛好家だって、ほんとうのことを言えば、読書によって癒しや勇気や安心感や深淵さを得られるから読んでいるにすぎず、彼らも「役にたつ文学」を追いかけているのだ。だから私は創作物が人間の精神衛生にとって「役にたつ」「効く」ものだということをまったく否定しない。
 私は専門家としては文学研究者だから、つい夢中になって力説してしまった。しかしこの連載は文学に焦点を当てたものではない。私の人格形成にもっとも影響があった表現ジャンルはマンガで、私がもっとも溺れてきた芸術は音楽だ。しかし、この連載では映画を扱う。映画は観るのには、まとまった時間を取るから、もともと熱心なマニアだったわけではない私は、映画に関する造詣が中途半端のままになっていて、それを残念に思っている。コロナ禍のあいだに、映画館をすっかり利用しなくなってしまった。そこで、映画を楽しむ時間を設け、ときどきはあれこれと考えられたら、希死念慮もやわらぐことになるだろうし、一石二鳥だと考えた。
 この連載の表題「われらの希死念慮を生きのびるための映画を教えよ」は、大江健三郎の作品集『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』へのオマージュだ。先に不眠や酩酊がないと死ぬのが難しいと書いたが、それは人間は狂気を利用しなかったら死にがたいということだろう。その意味で、この連載は「われらの狂気を生き延びる道を」開いていくものと考えている。
 私の映画に関する嗜好を最初に知っておいてもらうことは、読者にとって理解の助けになると思うため、とりあえずパッと思いつくお気に入りを20作だけ挙げておく。

クリス・マルケル監督『ラ・ジュテ』(1962年)
レイ・ハリーハウゼン特撮『アルゴ探検隊の大冒険』(1963年)
ジャン=リュック・ゴダール監督『気狂いピエロ』(1965年)
スタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』(1968年)
セルゲイ・パラジャーノフ『ざくろの色』(1969年)
フランシス・フォード・コッポラ監督『ゴッドファーザー』(1972年)
ルネ・ラルー監督『ファンタスティック・プラネット』(1973年)
ブライアン・デ・パルマ監督『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年)
マーティン・スコセッシ監督『タクシードライバー』(1976年)
長谷川和彦監督『太陽を盗んだ男』(1979年)
北野武監督『あの夏、いちばん静かな海。』(1992年)
ビクトル・エリセ監督『マルメロの陽光』(1992年)
クエンティン・タランティーノ監督『パルプ・フィクション』(1994年)
マイケル・ラドフォード監督『イル・ポスティーノ』(1994年)
デイヴィッド・リンチ監督『マルホランド・ドライブ』(2001年)
ペドロ・アルモドバル監督『トーク・トゥ・ ハー』(2002年)
ファティ・アキン監督『愛より強く』(2004年)
ガイ・リッチー監督『コードネーム U.N.C.L.E.』(2015年)
デイミアン・チャゼル監督『ラ・ラ・ランド』(2017年)
アリ・アスター監督『ミッドサマー』(2019年)


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