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デイヴィッド・フィンチャー監督『ファイト・クラブ』(1999年)

若い女A「死にたい」
若い女B「では『ファイト・クラブ』(1999年)なんてどう?」
若い女A「なんていう監督の作品?」
若い女B「デイヴィッド・フィンチャー」
若い女A「知らない人だ」
若い女B「『セブン』(1995年)とか『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)とか」
若い女A「ああ! 『ソーシャル・ネットワーク』は観たことある Facebook創業者が主人公の」
若い女B「そうそう。『セブン』も大ヒットしたんだよ。ブラッド・ピットとモーガン・フリーマンが主演したサスペンス映画」
若い女A「そうなんだ。『ファイトクラブ』はどんな話?」
若い女B「主人公を演じるのはエドワード・ノートン。彼は大手自動車会社に勤めていて、高級家具に囲まれて生活する独身男性。でも不眠症に苦しんでるの」
若い女A「不眠ってつらいよね。私も死にたいのは、不眠がおもな原因かなって」
若い女B「で、主人公は精神科医から勧められて、自助グループに通うわけ。それも不眠障害のじゃなくて、精巣がん患者の」
若い女A「へえ」
若い女B「主人公は自助グループでの悲痛な告白に病みつきになって、当事者でもないのに、いろんな種類の自助グループを回るようになる。自助グループに参加したら、ぐっすり眠れることがわかって。そうこうするうちに、彼自身と同じく「偽当事者」のヒロインや、ブラッド・ピット演じる相棒タイラー・ダーデンと出会って行動をともにするようになる」

主人公と相棒


若い女A「ふむふむ」
若い女B「主人公とタイラーは親睦のために殴りあいをするようになって、「ファイト・クラブ」を設立し、同好の士が集まってくる」
若い女A「おもしろそう」
若い女B「じゃあ、ご覧あれ」
(139分+αが経過)
若い女B「どうだった?」
若い女A「裸の男たちの殴りあいに圧倒された」
若い女B「この映画を理想的なマッチョ映画として称賛する男性は多いみたいね」
若い女A「違うってこと?」
若い女B「原作小説はチャック・パラニュークっていう人が書いてるんだけど、文体がぜんぜんマッチョじゃない。ビートニク小説みたいな感じで、スピード感はすごいけど、詩的で内省的」
若い女A「そうなんだ。たしかにところどころ映画の趣向も、マッチョイズムをからかっている気がしたかも」
若い女B「たとえば、どういうところでそう思った?」
若い女A「タイラーが一般上映する映画を編集して、一瞬だけ男性器が映るようにサブリミナル加工してるところとか」
若い女B「作品の終わり近くで、この映画自体にも一瞬だけペニスがサブリミナルで映るんだよね」
若い女A「あと、男同士の殴りあいとか、なんとなくエッチな感じがした」
若い女B「そのとおり! 原作者のパラニュークはゲイなのよ」
若い女A「なんだかそうじゃないかと思った。冒頭の場面、精巣がんの自助グループで、男性ホルモンが減って胸がふくらんだ男の人に主人公が抱きしめられて嬉し泣きするけど、なんだかどきどきしたもん」
若い女B「この映画にマッチョ映画の面はあるけど、男の闘争心を描いているのは、きっと倒錯したエロティシズムね」
若い女A「わざわざ肉体バトル満載の映画で、精巣がんのモチーフから始まっているのも、わざとだったのね」
若い女B「ファイト・クラブが暴走していって、テロリスト集団になったり、最後にビル群が崩壊するのも、一種のギャグとして理解できるの」
若い女A「なるほどね」
若い女B「ヒロインは女性のくせに精巣がんの自助グループに通っていて」
若い女A「主人公と自助グループの棲みわけを協議する場面で、じぶんが精巣がんのグループを取りたいって、「あなたにはタマがある 私にはないわよ」って言う場面は最高だった」
若い女B「やっぱりネタとして作った作品という面があるね」
若い女A「ふむ、そうかそうか」
若い女B「ところで、たしか、自助グループに通ってるんだよね?」
若い女A「うん、摂食障害の自助グループ」
若い女B「あの主人公やヒロインはみたいな「偽当事者」がいたら、どう思う?」
若い女A「うーん、私は気にしないかな」
若い女B「へえ、そういうものなんだ」
若い女A「遊び半分で参加しても、そのうち疎外感を抱いていづらくなるだろうから」
若い女B「なるほど」
若い女A「それに当事者だって、初参加のときなんかは、そんなに本気じゃないこともあるから、遊び半分と言える要素がある。結局、「本物」は残るし、「偽物」は自然に消えるだけのこと」
若い女B「本物と偽物の違いって何? 病気や障害の当事者か非当事者かってこと?」
若い女A「心底から苦しんでいて、その自助グループを求めているか、それとも苦しみがそんなでもないかってこと」
若い女B「そう考えると、ファイト・クラブは作った人たちなりの自助グループだってはっきりするね」
若い女A「殴りあいをとおしてのみ、対話できる何かがあるということかもしれない」
若い女B「自助グループみたいなルールも設定されてるしね」
若い女A「じゃあ、テロリスト集団になったのも、自助グループ活動みたいなもの?」
若い女B「社会転覆のための暗躍をとおしてのみ、対話できることがあるのかな」
若い女A「「仲間」としての他者を強く求める点では同じかもしれない」
若い女B「自助グループからテロリスト集団を包括する「仲間論」があったら読んでみたいかも。そういえば、作中でブラピが何度も「ドン底」っていう言葉を使ってたのは、アルコホーリクス・アノニマス(AA)のパロディね」
若い女A「「お遊びでドン底に落ちることはできない」とか「おめでとう。ドン底に一歩、近づいた」とかって言ってたね」
若い女B「あれはどう思った?」
若い女A「うーん、依存症の界隈では長年「底つき」を体験しないと回復に転じないって言われてたんだけど、その考え方はもう古いって言われてて」
若い女B「聞いたことある」
若い女A「最近だと、嗜癖(依存症の対象)と手を切るのをめざすんじゃなくて、ほどほどのおつきあいを心がけていくのが良い、って考え方が主流になってきているね」
若い女B「底つきなんてめざしたら、衝動的に自殺しかねないもんね」
若い女A「『ファイト・クラブ』では急速に破滅に向かっていって、最後でタイラーの正体についてどんでん返しがおこるでしょ。それは自助グループの伝統的な考え方にヒントを得てるんだろうなって思った」
若い女B「なるほど」
若い女A「自助グループって、自己啓発の反対のような面もあるけど、自己啓発的な面もあるんだよね」
若い女B「というと?」
若い女A「AAとかの伝統的な自助グループは、まずじぶんの無力を受けいれるように勧められるから、自己啓発的な能動性とは反対に見えるよね。でも、おれは無力を受けいれることで、人生を建てなおすことに成功したぞ! って興奮している当事者だっている」
若い女B「ケアの思想と新自由主義って対立的に論じられがちだけど、新自由主義者も充分にケアされることで、バリバリやれているわけだしね」
若い女A「そうそう。他者と比較してケアされることが多いと感じると、じぶんは受動的だと位置づけるだろうし、他者よりもケアされることが少ないと感じると、じぶんは能動的だと位置づけるでしょう」
若い女B「能動性と受動性の関係って、白か黒かでなくてグラデーションなんだね」
若い女A「人間は、あるいは生き物はみんな能動的で受動的だから。能動的なだけとか、受動的なだけとかはない」
若い女B「『ファイト・クラブ』を見て、死にたい気分は薄らいだ?」
若い女A「うーん、まだもやするところがあるから、原作の小説を読んでみようかな」
若い女B「原作者のあとがきが入っていて、たしかフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』現代版みたいなイメージで原作を書いたって言ってた」
若い女A「『グレート・ギャツビー』も、私はエッチな印象なんだよね」
若い女B「男女の悲恋を描いているけど、男同士のソウルメイトものっていう読み方ができるもんね」
若い女A「そう。夏目漱石の『こゝろ』なんかと同じ読み方ができると思う」


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