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僕が芸名にしない理由。 #1 幼少期

静岡県沼津市の産婦人科で1979年10月17日午前2時28分に産声をあげた。


生まれたときは母子手帳の記録から体重2890g、身長50cm、胸囲33cm、頭囲33cmだったらしい。

その他、母子手帳に書いてあった成長記録によると8~9ヶ月過ぎから「おとうさん」「おかあさん」「おねえちゃん」「ワンワ」「じーじ」「ばーば」「ねんね」と喋りはじめ、1歳4ヶ月になると「ドラえもん」「かいじゅう」「さんぽ」「ほん」「ねこ」「くま」「おんも」と喋っていたみたいだけど、なんかまだ赤ちゃんなのに喋り過ぎな気もした。

はじめて歯が生えたのが5ヶ月頃。寝返りが8ヶ月20日過ぎ頃から。9~10ヶ月頃にはいはいをするようになり、1歳頃からつたい歩き。2歳頃から走ることもできるようになったらしい。

今から41年前まで遡っているから、曖昧で記憶が飛んでいるところもあるけど、生まれたばかりの赤ちゃんの頃は沼津の借家に住んでいて、そのあとは転勤の関係で静岡市清水区(旧清水市)の祖父と祖母がいる父の実家の家に住んでいたらしい。

しばらくしてから藤枝市内の平屋建ての一軒家に父と母と姉と四人で住み、保育園に通っていた。なんとなく洋式トイレだった記憶がある。

そして、3歳の頃母と離別をすることになる。


離別してからは静岡市清水区(旧清水市)に引っ越し、父の実家に住むことになった。

記憶は無くて、確か姉から聞いた話だった気がするけど、清水に引っ越しをする時に車の中で

「お母さんは?」

と聞いたらしいが、姉が

「お母さんのことはもういいの!!」

と言い僕は大泣きをして、その時、車を運転している父は無言だったらしい。



転園で静岡市清水区(旧清水市)の幼稚園に通うことになる。


母の日に似顔絵を描くことに抵抗があった。友達は母の日に当たり前のようにそれぞれの母親の顔を描いているけど、僕は描けない。いつも父の顔を描いていた。その時、少しだけ寂しいという気持ちが芽生えた。

遠足に出掛ける時、保護者も一緒に行く。大体、母親が付き添いっていうのが多かったけど、僕には必ず祖父が一緒に行ってくれた。
勿論、町内の子供会で出掛けた時も祖父が一緒に行ってくれた。



でも、この時は寂しいという気持ちは全く無かった。



父は厳格で厳しかったから何も言えず、いつも祖父にお願いをしておもちゃを買ってもらっていた。当時、流行っていたのは筋肉マン消しゴム(キン消し)だった。

仮面ライダーとか戦隊ヒーローが好きだった。仮面ライダースーパー1のヒーローショーに父に連れていってもらって、ショーを客席から見ているとショッカーに客席から僕が舞台に連れてかれそうになって、大泣きをしてしまい、ショッカーを困らせたことがあったらしい。

ドクタースランプアラレちゃんも好きで、当時はCDやBD(ブルーレイディスク)、インターネットなんて無かったからカセットテープで歌を聴いたり、歌ったりしていた。

幼稚園の時はファミコンのスーパーマリオブラザーズも流行っていて、家にはゲーム機が無かったから、友達の家でゲームをして遊んだこともあった。

母子手帳の成長記録は昭和58年1月18日が最後になっている。

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