公衆衛生学と写真作品

専門学校の講義で伝えていたことを今振り返ると。


ちょうど2011年3月の東日本大震災で起こった原子力発電所の事故の翌年に、公衆衛生学の講義で特別に取り扱っていたことがありました。
「放射線・放射能の違い」
「なぜ政府高官が、原発事故の被曝量をレントゲン○回分などと例えることがまずいのか?」
等々
具体的に起きていることを例に取り上げていましたが、その中で伝えたかったことの一つは、特に公衆衛生学的にとか限った分野のことではありませんでした。


「自分が目にする情報を、鵜呑みにせず『考えること』を間に入れること。そして、人に自分の言葉で説明できてこそ、その情報や考えを自分の道具にできる。そこで初めて議論になる。」


というものでした。

情報は残酷です。
同じ文面、文字データ、音声であっても、内容によるデジタルデータ量は変わりません。そして、特にSNS上の発信の場合、自由に発信するのに基本的に責任もない。
出力されている情報の価値や真偽、インパクトなどは受け取る側の反応で現れる。これは、トロイの木馬のようなウィルスに似ています。
そして、今のような溢れ返った情報を取捨選択する時代だからこそ、自分が考えなしにいれば瞬く間に振り回されてしまうことを意味しています。

だから、何か起こった時には、


・自分の環境と近しい人や自身の皮膚感覚大切にし、できれば会話で共有する。
・相手が振り回されてしまっていても頭ごなしに否定をせず、客観的に考えるための時間を作ること
・相手が余計な情報に浸かり過ぎてしまっている場合、情報に流されることが心地いいと認識してしまっているので、少し情報から離してあげる

といったことを大事にしたらいいと考えています。

全てを疑えと言っているのではないですし、全部分かった上で判断しろと言っているのでもありません。

時として、賭けのような瞬間も出てくると思います。
「最初気は進まなかったけど勧められてやってみた結果自分が変われた!」
とか
「面白そうだし飛び込んでみたいと思って入ってみたら未知の世界を知れた。」
など。
でも、それは考えるという行為を呼吸のように無意識下で行なっていたからではないのでしょうか。

こういったことを思う時、よく私は頭の中で数学の世界に置き換えます。(内容は一般的なことなのですが。。。)


例えば、
「情報を円錐とし、それをある平面で切ると、その切り口は円・楕円・三角形・蒲鉾型みたく見え方が切り方で大きく変わる。」

「2次元では交点を持っているのに、3次元以上で考えると交わっていないことは多いので、別の要素を加味すると真偽が変わるのでは?」
など。
情報だけではないですが、デジタルデータを考える上で、数学の様々な分野が役に立つので、改めて見直すと面白いです。


長々と書いてしまいましたが、私の写真作品の原点とも言えるべき考えだよなーと、現在のような様々なタイプの災害に直面する度に考えます。
(まぁ外に出ないようにと道から言われているので単に鬱憤がたまっているのだと思います笑)

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