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「感じるままに」ということ

音楽が奏でられる。

音は世界の至るところに存在しているのだけれど、人がいわゆる「音楽」として捉えられるのは一体どこまでなのだろう。ふと、そのようなことを思ったのです。

風がそよぐ音、水がせせらぐ音、枯葉がカサカサと擦れる音。そうした音を人が「音楽」と感じることができるならば、それは「生きた音楽」となるでしょうし、「単なる音に過ぎない」と感じるならば、それは「死んだ音楽」となるのでしょう。

感じることは、事前に抱く「音楽とはこのようなものである」とのイメージや型にあてはめること、評価や解釈することではなく、ただただ音に入り込んでゆく、能動的に一つになってゆくことと言えるかもしれません。

本日のコンサートでは、グスタフ=マーラー作曲『交響曲第5番』の弦楽器パートをすべてサックス(サクソフォン)にアレンジしてお届けしました。

足を運んで下さった友人から「弦が好きですがサックスの音も弦に負けないくらい美しい音色で驚きました」という大変有難いお言葉を頂きました。編集(編曲)は物事の新しい一面を見せることで、「かくあるべき」という規範を破る力を持っているのかもしれません。

また、演奏する際も「考えながら」というよりも、今まで考えながら練習をしてきたことをすべて手放して、身体や周囲の環境の変化を機微に感じ取りながら、「流れのままに」音楽を紡いでいる時が最も音楽が流れてゆくような気がします。

考える以前の「感じるままに」ということを大切にしたいものです。今日は大変充実した一日となりました。

たとえば椅子から立ち上がるとき、わたしたちは自分の脚がまだここに在るのかどうかを確かめたりしない。そして、いきなり立ち上がろうとする。これがまさしく「行動」というものだ。わたしたちが行動を起こすときはいつもそんなふうに、自分の状況や条件についてあらためて慎重に確かめたりはしないのだ。

白取春彦『ヴィトゲンシュタイン 世界が変わる言葉』

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