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心は動きの中に存在する

最近、朝方の時間に大学入試の数学の証明問題を考えてみるのが、ちょっとした楽しみです。そうした中で『心はすべて数学である』というタイトルの本に出会いました。

この本は数理科学者である津田一郎さんが書かれたもので、とても興味深く読んでいます。「"心は数学である"とはどういうことだろう?」と想像してみるだけでも面白いです。書籍から一部を引用してみたいと思います。

ではなぜ私が「数学は心である」と考えるに至ったのか、ピタゴラスやプラトンとは時代もアプローチもまったく異なりますが、”心”について考えてきたことを述べてみたいと思います。私の素朴な印象では、数学の証明というのは心の動きを表現しているのではないかと思われるのです。
それは、こういうことです。数学の証明を見てみると、そこにはこういう仮定をするとこんな結果が導かれる、でも最終的に自分が証明したいことはこうだ、という過程が記述されています。1+1=2という数式ひとつとってみても、=の前と後に、それぞれ前提と結果があるということは納得してもらえるでしょう。そこには構造が生まれます。これが複数連なれば、それは表面的には数式の連鎖に見えるかもしれません。ところが、Aを証明するためにはBがわかっていなければならない、そのBがわかるためにはCがわかっていなければならない......、という緻密なつながりがある。数学者はこうした思考の連鎖について頭の中で思いをめぐらせています。
ではこの命題が証明できたら、どういう構造が現れるのだろうか。この証明はどのような数学的意味をもつのだろうか。あるいは、証明したいことの構造に対して、現段階ではどこまでのピースが集まったのか。果たしてこのピースを入れたとすると、構造の何が補強されるのか。心の中で問答しながら、点検しながら、ああでもないこうでもないと、様々に緻密な思考をしているはずなのです。そういう意味で、数学の証明という作業には心の動きそのものが表れているといえます。

証明問題は、山の頂きを目指す登山に例えられるかもしれません。

数学の証明問題を考える時は「何が問われているのか?示したいことは何か?」という最終ゴールを理解することから始まります。山の頂上はどこかを把握していなければならないのです。頂上の場所を正確に理解しなければ、いつまでも頂上にたどり着きません。まさに「イシューよりはじめよ」です。

次に、どのようなルートがあって、その中のどのルートを選択するのが良いのかを考えます。このルートの選び方次第で、登山が易しくなる(証明が極めてシンプルになる)のか、険しくなる(証明が複雑になる)のかが決まります。問題をどのような切り口で切るのか、ということですね。

どのような証明問題でもシンプルな証明は、その流れがとても美しく説得力があります。「数学の証明という作業には心の動きそのものが表れている」という言葉は、私の中でたしかな実感があります。

1 + 1 = 2の証明

もし「なぜ"1+1=2"なのですか?」と質問されたらどのように答えますか?何が示せれば「1+1=2」と示せるでしょうか?

たとえば「カゴに1つのリンゴが入っていて、リンゴをもう1つ入れたら、カゴにはリンゴが2つ入っているよね」と具体例で説明するでしょうか?

ではその次に「1+1=3ではどうしてダメなの?」と質問されたとしたらどのように答えますか?これは実に悩ましい問いかけではないでしょうか?気持ちとしては「0の次は1、1の次は2」であると伝えたいのです。

数学的な話は最後に書きますので、ここでは気持ちの流れを追ってみます。

ゴールから逆算すると「1の次に2以外の数字が並ぶと1+1=2は説明がつかない」ですよね?そこから逆算すると「1の次は2という決まりにしておかなくてはいけない」ということなのです。

この前提を共有しなければ、その先は平行線を辿ってしまいます。つまり、私達が扱う数字について以下のような規則を決めておく必要があります。

1. 数字は0、1、2、...と続くんだよ。
2. 0、1、1、...のように同じ数字は続かないんだよ。
3. 0、1、2、1、...のように、同じ数字は出てこないんだよ。

次に、「+」というのは「次に並んだ数字を表す」という決まりを共有しておかなくてはなりません。ここまでして初めて「1+1=2」であると互いに分かり合えるところまできます。

「ところが、Aを証明するためにはBがわかっていなければならない、そのBがわかるためにはCがわかっていなければならない...という緻密なつながりがある。」という津田さんの言葉の意味が、なんとなく伝わるでしょうか。

”アタリマエ"を伝えるというのは、案外大変ですよね。そして、アタリマエを伝えることは、私達が前提していることをあらためて見つめ直す機会でもあります。

心は動きの中にある

「心とは何だろう?」という問いは、多くの先人、そして現在を生きる私達にとっても重要な問いのように思います。

1+1=2の証明の話を考えてみると「心は動きの中にある」ということのように思うのです。と、同時に「心というのは万物に見出すことができるのではないか?」とも思うのです。

たとえば、四大元素と言われる火・水・風・土。火の心、水の心、風の心、土の心。そう言われてみると、心があるように思えてきませんか?

火のゆらめき、水のせせらぎ、風のそよぎ、土のうごめき。そうした動きを生み出す物理法則、化学反応など一連の現象の連なりとしての自然の摂理が存在する。摂理とは「メカニズム」と言い換えることができるでしょうか。

何かが変化すると、その変化に応じてまた他の何かが変化してゆく。本質を理解するという意味で「心を得る」という言葉がありますが、その「心」とは万物、事象の中に存在する動きの連鎖なのかもしれません。

心の存在が思い起こされる「感動」という言葉も「感じて心が動く」と解釈することもできますし「動きの中に心の存在を感じる」と捉えることもできるかもしれません。

そんなことを思い巡らせるうちに、なんだか気分が晴れやかになりました。

<参考>ペアノの公理

ここでは「1+1=2」は数学的にどのように証明されるのか、参考までに書いてみたいと思います。「ペアノの公理」というものです。

「1+1=2」を示すには、以下の2つを定義することから始まります。

1. 0, 1, 2, ..., と続く"数の並び"をどのように表すか?(自然数を定義する)
2. "+"とは何か?


まず私たちが「アタリマエ」のように使っている数を定義するのですが、「自然数とは以下の5つを満たすもの」とするのがペアノの公理です。

1.  自然数0が存在する。
2.  任意の自然数aには、その後者suc(a)が存在する。-> "suc"という箱にある数を入れたら、その数とは異なる数字が出てくるイメージ。
3.  0はいかなる自然数の後者でもない。-> 数字の並びは0から始まる。
4.  異なる自然数は異なる後者を持つ。
5.  0がある性質を満たし、aがある性質を満たせば、その後者suc(a)もその性質を満たすとき、全ての自然数はその性質を満たす。

噛み砕いて言うと、上の5つのルールがあると「0 → ● → ◯ → ▲ → △ → ...」と異なる数字が無限に並んだものをつくることができます。(●や◯は全て異なる数字だと思ってください)

もし「4.  異なる自然数は異なる後者を持つ。」というルールがなければ、「0 → ● → ● → ● → ● → ...」のように、0と●(0以外の数字)の2つの数だけの並びを作れてしまいます。これでは「1+1=2」を示したいのに、●は1か2のどちらかしか選べないとなると、「1+1=?」となってしまうわけです。

次に"+" という計算のルール(加法)を定義します。

1. 全ての自然数aに対して、a + 0 = a
2. 全ての自然数a, bに対して、a + suc(b) = suc(a+b) -> たとえば、0 と1 

加えて、以下を決めます。

- suc(0) = 1 -> "suc"という箱に0を入れたら1が出る
- suc(suc(0)) = 2 -> "suc"という箱にsuc(0)という数字を入れると2が出る

これらを組み合わせると、ようやく「1+1=2」を示すことができます。

加法の定義、つまりa + suc(b) = suc(a+b)において、a = suc(0),  b = 0とすると1 + suc(0) = suc(suc(0)+0) となります。ここでsuc(0) = 1なので、この式は1 + 1 = suc(0+suc(0)) = suc(1) = 2となり、証明が終わります。

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