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流れ、変化、そして学び。

今日も春を思わせる陽気な1日でした。高木正勝さんのNijikoを聴きながら、夜の静けさにひたっています。

最近、流動学(rheology)という分野を気の赴くままに学んでいます。岡潔さんが「知は自由に遊ばせておくのがよい」と述べておられますが、まさにそうだなと。

「流れ」という事象(コト)はなにも水や風のような物理的、物質的な流れにとどまらず、会話や音楽、生命など、世界の全てが「流れ」というを通してつながっているように思います。

時に人生を「波瀾万丈」と評することもあるように、意識しようとしまいと私たちは流れているとすれば、「そもそも流れるとはどういうことなのだろう?」という問いが浮かんできて、ふとしたきっかけで出会ったのが流動学という分野でした。

レオロジー(英語: rheology)とは、物質の変形および流動一般に関する学問分野である。日本語では「流動学」とも呼ばれる。レオロジーという用語は、ヘラクレイトス(異説もあり)の有名な言葉 "panta rhei "「万物は流転する」による造語で、ユージン・ビンガム(1920年)による。適用範囲は広く、大きさ的に見れば分子サイズから宇宙サイズまで、様々な大きさでの議論がある。基本的に物体間での作用を議論する学問であるため、ニュートン力学の範囲で議論される。

Wikipediaより

対として、摩擦学(Tribology)という分野も学んでいます。大切なことはえてして「何かと何かの間(あわい)」にあると思うからです。

たとえば、「行間を読む」といいますが、語られていないことの中に核心が秘められていることがしばしばあります。語ることで、何かが引っかかるような感覚として「語られていないこと」に対して意識が向くように思うのですが、だとすると、その「引っかかり」というのは「摩擦」という概念で包み込むことができるのではないか、と。あるいは、適切な摩擦がなければ、私たちはなめらかに歩くことはままなりません。

私の場合、こうした学問を学ぶのは、なにも新しい現象や物質を発見しようということではありません。

むしろ、身近にあふれている世界や出来事の中で気付いていなかったこと、見過ごしていたこと、意識が向いていなかったことを再発見したい。あるいは、本当は様々に彩られているはずの世界が、偏った見方によってモノクロに見えてしまっているとすれば、その彩りを少しずつでも取り戻ことはできないだろうか。ただただ自由気ままに知が遊んでいるわけですが、おそらくそんな思いが下支えているのだと思います。

学ぶというのは知識を詰め込むことではなく、「自分をほどいて変化すること」だと思うと、生活のあらゆることが「学び」と言えるかもしれません。

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