なんのため、誰のための省力化?

E・F・シューマッハ(イギリスの経済学者)による書籍『スモール・イズ・ビューティフル - 人間中心の経済学』の「第二部 資源」より「第五章 人間の顔をもった技術」を読み始めました。

今日は「技術が人間にもたらすもの」について。一部を引用してみます。

私がはじめて世界各国をまわり、豊かな国や貧しい国を訪れたとき、「ある社会が享受する余暇の量は、その社会が使っている省力機械の量に反比例する」という命題を、経済学の第一法則として立てたくなった。(中略)さらに、工業の発達という点からみれば世界の最下位に近いビルマのような国を訪れると、すばらしくたっぷりとした余暇があり、人びとが心ゆくまで楽しんでいるのを知る。もちろん、省力機械などまずないから、ビルマ人の「造る」モノは、先進国よりはるかに少ない。しかし、それはここでの問題ではない。生活の負担は彼らのほうがずっと軽いという事実が肝腎なのである。
そこで、人間のために技術が今してくれているのは何なのかを考えることが意味をもってくる。技術のおかげで、ある種の仕事が大幅に減るのはたしかであるが、別の種類の仕事は増える。現代技術によって減ったり、不要になったりした仕事というのは、いろいろな材料に人が手を触れて行う種類の、技能的・生産的な仕事である。
以上の単純な計算は、額面どおりにとっていただく必要はないが、技術の成果を十分に示している。つまり、技術はもっとも基本的な意味での生産に使われる時間をごくわずかなものに圧縮してしまったわけで、その結果、生産活動は意味を失い、名声はおろか重要性も奪われてしまった。

「ある社会が享受する余暇の量は、その社会が使っている省力機械の量に反比例する」

著者が「経済学の第一法則」としたいと考えるこの命題が、とても印象に残りました。

人間の労働を省力化するための機械が導入されるほど余暇が「減る」と著者は言います。省力化によって労働時間が減らないとすれば、どこかに矛盾を内包しているようにも思います。

なんのため、誰のための省力化なのでしょうか?

著者は本書を執筆した当時(1973年)のイギリスを例に挙げ、以下の前提の下でこの命題を導いています。

1. 「仕事らしい仕事」に従事しているのは全人口の半分程度である。
2. その約3分の1が農業、鉱業、建設業、工業の現場労働者であると言われている。
3. 現場労働者と呼んでいるのは、管理者や経理担当者や企画担当者ないしは他人の造ったものを流通させる人たちを含まない。
4. 総人口の6分の1弱が現場労働者だということで、平均すれば、この人たちが1人で残りの5人を養っていることになる。5人のうち2人は、生産現場以外で仕事らしい仕事に従事しているが、3人はそうではない。

「仕事らしい仕事」とは何でしょうか?

著者の言葉を借りれば「いろいろな材料に人が手を触れて行う種類の、技能的・生産的な仕事」となります。この仕事に従事するのが「現場労働者」となるわけです。

省力機械がないことで生産量は少ないながらも、人が「仕事らしい仕事」に携わり「余暇は多く、生活の負担が軽い」ビルマという国が対置される時に思い浮かぶのは次のような問いでした。

そもそも「生産する」とはどういうことなのだろう?
そして、なぜ生産量を増やし続ける必要があるのだろうか?

「仕事らしい仕事」の中でも特に強調されているのは「人が手を触れる」という点のように思います。対象の手触りを感じながら、夢中になるような。それだけでも、日々の生活は瑞々しさを取り戻していくような気がします。

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