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「倍音」という概念を拡張する〜基音としての言葉、倍音としての質感〜

「倍音に耳を澄ませる」

この「倍音」という概念は、物理現象としての音(振動)だけではなく、実は「あらゆる物事に拡張できるのではないだろうか」と、ふと思いました。

詳細は解説動画を参照して頂ければと思いますが、基音は「実際に鳴らした音」で、倍音は「(実際に鳴らしたわけではないけれど)基音に共鳴して鳴る音」です。

楽器の文脈で言えば、倍音は楽器の種類や音域(音の高低)、演奏方法などによって含まれ方が変わり、この倍音の含まれ方によって音の「質感」が変わってきます。

「倍音の概念をあらゆる物事に拡張できるのではないだろうか」と、思ったのは「誰かと会話している場面」が頭の中に浮かんできたからです。

日常生活における会話を下支えるのは言葉ですが、何も純粋に言葉だけをもって意思疎通を図っているわけではありません。表情、声のトーン、身振りや手振り、声の高さなど、語られる言葉には数多の要素が含まれています。

比喩的に対比すると、基音は「実際に語られている言葉」だとするならば、倍音は「言葉を下支えて質感を与える要素」に相当するのではないか、と思うのです。何を語っているのか(基音としての言葉)だけでなく、どのように語られているのか(倍音としての質感)のほうが、じつは重要であることが多いように思います。

この極限は「沈黙とは語ることなく語ること」に行き着きます。「何を」に相当する言葉が空となり、純粋な「どのように」のみが残る。そこには、言葉という制約から解放された「大切な何か」がたしかに存在していて、それは受け取る側が察する(耳を澄ませる)ことでしか見い出すことができない、繊細な響きなのです。

そう思うと、言葉の奥底にある思いや気持ちを察するというのは、微かに含まれる倍音を感じ取ることに近いのかもしれません。倍音を聞き取る、いや聞き分けるためにはある種の訓練が必要だと思いますが、難しく考えすぎずまず何より様々な音にふれて、様々な音の質感をただただ体感して味わうことが必要なのだと思います。

会話の文脈で言えば、あとから会話を振り返って、相手の気持ちを察する形で内省をしてみる、ということの積み重ねなのかもしれません。

人との会話だけでなく、たとえば、先入観を捨てて「花や絵画の美しさを直観する」というようなことにも、この「倍音に耳を澄ませる」という概念の射程は広がっていると思うのです。

 この日々の暮らし。この小さな生活。
 昨日の一日。今日の一日。暮らしながら、わたしたちはほとんど気がつかないでいる。どんなささやかな暮らしにも、苦しみや悲しみが混じった生活にも、その片隅で美しい光が灯っていることに。
 それが消えずに、わたしたちの暮らしを照らしていることに。

白取春彦『ヴィトゲンシュタイン 世界が変わる言葉』

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