金・銀と(銅・鉄・鉛)のたとえ
ナタリー・サルトゥー=ラジュ(哲学者)の著書『借りの哲学』の第1章「交換、贈与、借り」より「<本当の贈与>とは何か?」を読みました。
「自分の持っているものをすべて差し出すこと」について。一部を引用してみます。
『ヴェニスの商人』のなかでは、一箇所だけ、<本当の贈与>、すなわち<返礼を求めない贈与>について言及がされる。それは、美しく裕福なポーシャにバッサーニオが求婚したとき、自らの愛を示すために「箱」を選ぶ場面に現れている(第二幕 第七場)。ポーシャと結婚するために、求婚者たちは金と銀と鉛の箱の三つからひとつを選ぶという試練を受けなくてはならないのだ。
金の箱には以下のような文面が彫られている。
我を選ぶ者は、誰もが欲しがるものを得られる
銀の箱にはこう彫られている。
我を選ぶ者は、自分にふさわしいものを手に入れることができる
そして、鉛の箱にはこう彫られていた。
我を選ぶ者には、自分の持っているすべてのものを差しださなければならない
バッサーニオは鉛の箱を選んだのだが、そこに彫られた言葉は、<返礼を求めない贈与> - つまり、「愛」の本質を語っている。愛することとは、「自分の持っているすべてのものを差しだす」ことにほかならない。「愛」は見返りを期待しない。すべての打算や利益を超えたところに生まれるのである。これによって、バッサーニオはポーシャを得るが、それは<交換>を意味しない。問われているのは、自分が与えるかどうかだけだからである。
「問われているのは、自分が与えるかどうか」
この言葉がとても印象に残りました。
『ヴェニスの商人』では「金・銀・鉛」の三種類の箱が登場しますが、これと似た例として、イソップ寓話を思い出しました。
イソップ寓話では「金・銀・鉄」の三種類の斧が登場します。きこり川に鉄の斧を落としてしまい、そこにヘルメス神が現れて川に潜り、斧を拾ってくるという話です。
きこりはヘルメス神が拾ってきた金・銀の斧は自分のものではなく、最後に拾ってきた鉄の斧が自分のものであると正直に答えると、ヘルメス神が正直な心に感心して三本すべてを与えます。
金や銀ではなく、鉛や鉄。
この「素材の差異」に込められた意思を汲み取りたいと思いました。
鉛や鉄もたしかに輝きを放っていますが、金や銀の輝きに比べると瞬間的な力強さは劣るかもしれません。ですが、たしかに輝いています。
たとえ見返りを求めないとしても、金や銀のように「見た目の力強い輝き」は、相手がていねいに観察する目を曇らせ、想像力を働かせる余地を奪ってしまうのではないか。
相手に与える代わりに見返りを求めることを「GIVE & TAKE」と表現しますが、自分からは相手に見返りを求めないとしても、受け取った相手に「与える自分からTAKEしよう」とする気持ちを抱かせないこともまた、同様に大切なのではないか、と思うのです。
著者は「愛は打算や利益を超えたところに生まれる」と述べていますが、それは受け取る側も同様で「打算や利益を超えて」受け取ることが求められるのかもしれません。
それは人それぞれの気の持ち様ということなのか、あるいは与える何かの選び方の問題なのか。もう少し考えを巡らせてみたいと思います。