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反脆くなるために「会って話す」

今日は『反脆弱性』(著:ナシーム・ニコラス・タレブ)から「心的外傷後成長とイノベーション」を読みました。

「計画や予測が外れることは望ましくない」あるいは「予測は"正確でなければならない"」と信じたい。自分が望む未来が訪れると願いたい。予定調和な世界は望ましく、予定不調和な世界は望ましくない。そのように思いたくなる気持ちも分かります。

知識人といわれる人たちは、ランダム性が及ぼすプラスの作用(反脆さ)ではなく、マイナスの作用(脆さ)に着目しがちだ。この傾向は心理学だけでなく、どんな分野にもはびこっている。

ランダム性。不確定であること、無秩序であること。本当は予測が当たる事は滅多になく、予測が外れて当たり前なのかもしれない。予測したとおりの結果が返ってくるのは偶然かもしれないのに、偶然を必然と勘違いしてしまう。

反脆さとは「衝撃やストレスを成長や繁栄に変換する性質」であり、脆いか反脆いかは「衝撃を受けた時の潜在的損失を上回る潜在的利得があるか」で見極めることができるのでした。潜在的利得が大きい場合、そのシステムは反脆いのです。

予測と実際の乖離を自らの構造を変化させる力に変える。それが反脆さ。

もちろん、古代の思想にも同じような考えがある。ラテン語には、「洗練は飢えから生まれる(artificia docuit fames)」ということわざがあるし、古典文学にも同じような考えが見られる。オウィディウスの作品には、「困難が才能を呼び覚ます(ingenium mala saepe movent)」という言葉ある。ブルックリン英語に訳せば、「人生がレモンだらけなら、それでレモネードを作りゃいい」といったところだろうか。

洗練は飢えから生まれる。たとえば、空腹が続くと感覚が研ぎ澄まされて、味覚や嗅覚が鋭敏になるように。何かを研ぎ澄ませるためには、様々な物事を断つことから始めるということなのかもしれません。

「困難が才能を呼び覚ます」という言葉からは、奏者・楽器・楽曲の関係性を連想しました。技巧的に難しい楽曲。繊細な音色を要求する楽器。美しく奏でるために練習を積み重ねる過程で、楽曲と楽器が人が本来持っている力を開花させてゆく。そのような情景が浮かんできました。

ローマの偉大な政治家、カトーをはじめとして、多くの人たちは快適と名のつくものはほとんど何でも、無駄に通じる道だと考えていた。カトーは、あまりにもやすやすと手に入る快適さは意志の力を弱めるとして、毛嫌いしていた。それは単に個人的なレベルの話ではない。社会全体が病に陥る可能性もある。

「やすやすと手に入る快適さは意志の力を弱める」という言葉からは「便利すぎて不便なことはないか?」という問いを思い出しました。

便利の代表格といえば、携帯電話やインターネット。いつでも・どこでも・誰とでも直接つながることができるわけです。一方、携帯電話やインターネットの出現により「つながりっぱなしの世界」に足を踏み入れることとなりました。

携帯電話やインターネットがない時代は、コミュニュケーションの中心は、「顔を合わせて話す」こと。顔を合わせて話すのは、少なからず意志の力が必要ですよね。相手と同じ時間と空間、空気を共有しているわけですから。生身の人がそこにいるわけです。

「顔を合わせて話す」というのは、予測不可能だなと思うわけです。相手の一挙手一投足に意識を向けていなければ、相手の話を真剣に聞いていないと気付かれてしまう。あるいは相手が察してしまう。

話は横道にそれますが、日常生活にランダム性を取り入れる一つの方法は、「誰かと会って話す」ではないか。そして、会話の中の予測不可能性、予定不調和を楽しむこと。それが反脆くなることへの近道ではないか、という気がするのです。

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