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不二 ≠ 一

今日は書籍「「利他」とは何か」第三章「美と奉仕と利他」より「柳宗悦 - 「不二」の哲学」を読みました。一部を引用してみます。

仏教には「不二」という言葉もあります。二つではない、ということなのですが、それは「一」を意味しません。二つのものが、二つのままで、「不二」である、抗しがたい「つながり」によって結びつく状態を指しています。それは、けっして「二」になることがないもの、ともいえる。
「不二」という言葉を自己の哲学の中核においたのが柳宗悦です。彼の名前は今日、民藝運動を牽引した人として知られています。(中略)一九四八年に行われた講演「美の法門」で柳は、二を「不二」にすることこそが自らの悲願であると述べています。
それは凡て現世での避け難い出来事なのである。仏の国でのことではないからである。ここは二元の国である。二つの間の矛盾の中に彷徨うのがこの世の有様である。(中略)人間のこの世における一生は苦しみであり悲しみである。生死の二と自他の別とはその悲痛の最たるものである。だがこのままでよいのであろうか。それを超えることは出来ないものであろうか。二に在って一に達する道はないであろうか。(『新編 美の法門』)

「不二とは何か?」という問いです。

不二とは文字どおり「二にあらず」ですが、私はこの言葉を目にしたとき、「人の集まり」を連想しました。「一」を意味するならば「一」と表せば十分で「二にあらず」というのは集合論的に「一」以外の可能性も含みます。

「二つ以上の要素をもつ集合(グループ)」を「不二」という言葉の意味を捉える上での出発点にするとよいのではないかと思いました。

さて、今回紹介されていた柳宗悦(やなぎ むねよし)さんですが、1889年生まれの思想家・美学者・宗教哲学者で、民藝運動を起こした方です(民藝とは民衆的工藝の略語)。

Wikipediaを参照すると、民藝運動とは「1926年(大正15年)「日本民藝美術館設立趣意書」の発刊により開始された、日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」を見出し、活用する日本独自の運動」とされています。

「用の美」とは実用性つまり「使う中にある美しさ」のことで、装飾性などによらないものです。他にも同じようなものがあると思えるかもしれないけれど、そこには余計なものを削ぎ落として本当に大切なことに職人の確かな手仕事があるのです。

さて「生死の二と自他の別とはその悲痛の最たるものである。だがこのままでよいのであろうか。それを超えることは出来ないものであろうか。二に在って一に達する道はないであろうか。」という柳さんの言葉ですが、「同床異夢」という言葉にも通じるように思いました。

「同じところを目指しているはずが、じつは違う方向を向いていた」ということが往々にしてあります。

「お互いを束縛することなく、それでいてつながっている」という状態は、どうすれば実現できるのでしょうか?

そう思っていると、ふと太陽の周りを回る地球、地球の周りを回る月の様子が思い浮かんできました。

互いの引力で引かれ合いながらも、付かず離れずでそれぞれの運動を続ける天体のように「お互いの距離を適切に保ち続ける」ことが重要なのかもしれません。

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