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自他を超える「他」

今日は書籍「「利他」とは何か」第三章「美と奉仕と利他」より「「利他」の原義 - 「他」とはなにか」を読みました。一部を引用してみます。

仏教には「自力」「他力」という言葉があります。「自力」とは人間が自分の力で何かをなそうとすることですが、「他力」は自分では何もせず、仏のちからによって何かが起こるのを呆然と待つことではありません。人間と仏が、人と仏の二者のままでありながら、「一なるもの」になることです。
仏教における「他」には「自他」を超えた「他」という意味があるのです。そう考えると、利他における「他」も、自分以外の他者ではなく、「自」と「他」の区別を超えた存在ということになります。
最澄は、他を利するには自己を「忘れ」なくてはならない、と述べ、空海は、仏教は「自利」と「利他」の二つの支柱からなる、と書く。二人は近似したことを語っていると考えることもできますが、似て非なるものであるということもできます。

「他とは何か?」という問いです。

「他とはなんだろう?」と自問してみると、正直なところとまどいました。たとえば「私と私以外の人」「この場所と他の場所」など、他という言葉は「〜以外」という意味で使っています。

つまり「線を引いて分ける」という二項対立的な構造が「他」という言葉につきまとっていました。

ですので「仏教における「他」には「自他」を超えた「他」という意味があるのです」との著者の言葉がとても新鮮に感じられました。

また、「他を利するには自己を忘れなくてはならない」と述べる最澄と、「仏教は自利と利他の二つの支柱からなる」と述べる空海。

「どちらが正しい・正しくないのか」ということではないのですが、私自身は「自己犠牲的な利他は長続きしない」と考えており、「自利と利他」の両面が大事だと考えています。

ただし、「自利と利他が近づく」というのか、自分も自分以外も満たす何かに自然と夢中になっている状態は、「自己」を忘れているとも捉えることができ、空海と最澄の両者の考えは共存するのではないか、と考えます。

「自由と不自由」の関係性の中で、共同体の帰属から離れるという意味で「個人」としての自由を手にしたとしても、生きていく上での「交換原理」という制約から逃れることはできません。

それはある意味で「自由の中の不自由」とも言えるのですが、「自由の中の不自由」を限りなく小さくしていく構図というのは「自利と利他が近づく」という構図に似ていると感じました。

「自他を超える他」

大事な言葉が、またひとつ。

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