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どこからどこまでが自分の身体?

今日は『触楽入門 -はじめて世界に触れるときのように-』(著:テクタイル)から「ゴム製の手の上に感覚を感じてみよう」を読みました。

まず昨日読んだ内容を振り返ると「自分で自分をくすぐれないのはなぜだろう」という話題でした。その理由は「脳が感覚を予測しているから」というものです。脳は運動の指令を筋肉に伝える際、運動指令のコピーを司る体性感覚野にも送っています。そして予測と実際の一致により、自分が起こした行為であることを確認しています。

最初からくすぐることを予測した上で自分をくすぐると、自分の行為の感覚を脳が打ち消してしまうと考えられています。逆に、他人にくすぐられる時は行為がどのような感覚を伴うのかを予測することができません。ですので行為と感覚が予期せぬ不一致となった結果として「くすぐったい」という感覚が生まれるのでした。

この事実は、簡単な装置を用いて人をくすぐる実験において、fMRI(磁気共鳴機能画像法)により脳の活動を計測したことで明らかとなったのでした。人間は日頃から無意識のうちに予測を積み重ね、自分の身体の感覚が自分に帰属することを確かめているんですね。

さて、今回読んだ範囲では「視覚と触覚の同期による錯覚」というテーマが展開されていました。

視覚と触覚は同期する

「視覚と触覚が同期する」とはどのようなことでしょうか?その同期が錯覚を引き起こすとはどのようなことでしょうか?著者はその事例として「ラバーハンド・イリュージョン」を紹介しています。

ラバーハンド・イリュージョンは、目で見ているニセモノの手こそが、自分の身体だと思い込んでしまう現象です。まず、自分の本当の手を衝立の向こう側に隠し、視界の外に追いやります。その代わりに、目の前にはゴム製のニセモノの手を置きます。 そして、衝立の向こうの本物の手と、目の前のニセモノの手を、しばらく、同時に筆でなぞります。すると、なんとも奇妙なことに、それがニセモノの手であることは頭ではよくわかっているのに、ニセモノの手の上に筆の感触があるかのように感じてくるのです。

ニセモノの手を自分の手だと錯覚してしまう。このような実験は試したことがありませんが、画面の向こうに映る手の動作を見ていると、不思議と自分の手のように感じられたことがあります。

例えば、調理の映像を見ているとき。フライパンで鍋ふりをしている動作、食材をさばいている動作など。自分の手が映像の手の動作をなぞるように動いている感覚を覚えます。この「なぞる」という感覚が「同期」という言葉に重なります。視覚と触覚はつながっているのだと感じます。

どこからどこまでが自分の身体なのだろう?

著者は「麻酔をかけて麻痺した身体にも感覚が生じるのだろうか?」という問いに対して、実際に感覚が生じることを示した実験を紹介しています。

それでは、麻酔をかけて身体を麻痺させた場合でも、同じように、他人が触られているのを見ているだけで麻痺した手に触覚が生じるのでしょうか。驚くべきことに、実験したところその通りだったとラマチャドラン博士は報告しています。こうした事例からわかるのは、どれが自分の身体なのか/どこまでが自分の身体なのかという認識とは、決して自明なものではなく、感覚からのフィードバックによって不断に構築されているということです。状況によっては、視覚や触覚によって身体の境界線が変わってしまうということも起こる。逆に言えば、視覚と触覚をうまく使うことによって、身体感覚を思い通りに改変できる可能性がある、ということも言えます。

麻酔をすると、皮膚の下にあるイオンチャネルからのイオンの流入が阻害され、結果的に電気的エネルギーの変化が感覚神経を伝わらないために感覚がなくなります。ですので、麻酔をすると感覚は伝わらないはずです。

他人が触れらているのを見ると、自分が実際に触れられているわけではないのに「あたかも触れられている」ように感じるんですね。視覚情報が触覚に変換されている。とても不思議です。

「どれが自分の身体なのか/どこまでが自分の身体なのかという認識とは、決して自明なものではない」

「感覚からのフィードバックによって不断に構築されている」

身体とは一体何なのでしょうか。本書を読み進める中で感じるのは、少なくとも「身体とは物質的な肉体だけを指すのではない」ということ。そして、「身体は物質と精神(知覚)が統合されたもの」と言えるのではないか。

そのような気づきを得ました。

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