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行いによって利他は始まり、沈黙によってそれは定まる

今日は書籍「利他とは何か」第三章「美と奉仕と利他」より「沈黙という秘義」を読みました。一部を引用してみます。

利他は行為の中に顕現するが、しかし、それは言葉によって説明した途端に本質が見えにくくなる。利他が成就していても、それをめぐって語り始めたときに虚飾を帯びる。こうした現象は私たちが日々、目にするところです。
こうした言葉は、言葉の限界と誤り易さを示す言葉であるとともに沈黙のちからを説く言説として読むこともできます。行いによって利他は始まり、沈黙によってそれは定まるという原理を先賢たちは説いているのです。
お金を寄付するとか、人を助けるといった、いわゆる善行を行うのも、もちろん悪くはありませんが、それだけでは利他にはならないこともある。作為的に動いているとき、人は「神」に十分にい近づけていない。自らの意を超えたところで動かされること、すなわち無為の状態においてこそ、利他は成就しているのかもしれません。

「利他」という現象は、それが生じたことを言葉に表した途端に「負い目」を感じてしまうのではないだろうか。そのようなことを思いました。

「利他」という現象は純粋に「素直に嬉しい」「ありがとう」という喜びや感謝の気持ちのみを伴うものであって、その気持ちを相殺してしまうような「負い目」を伴うものであってはならないように思います。これは自戒の念を込めて、です。

「利他という出来事のさまたげになっているのは作意である」

以前に取り上げたこの言葉が思い返されました。

自分が「利他した」「利他しようとした」という事実を言葉してしまうと、相手に対して負い目を感じるさせてしまうのではないだろうか。それこそが「作意」なのではないか。

「行いによって利他は始まり、沈黙によってそれは定まる」との著者の言葉から、利他には「謙虚さ」が求められるようにも感じました。意識させない・ひけらかさない、ということです。

そして「謙虚さ」を体現する行為の一つが「沈黙」であると捉えてみてはどうでしょうか。

「もしかしたら相手は気付かないかもしれないけれど、それでいいんだ。」という心構えでありたいものです。作意から離れるように。

逆に言えば、私たちは日常生活の中で、気付いていないだけで「誰か」あるいは「何か」とのあわい(間)に生じる「利他」という現象に立ち会っているのかもしれません。

それは誰かから言われるでもなく「自分自身で自覚する」ことではじめて、負い目を伴わない「利他」として成立するような気がします。

「利他は行いによって始まり、沈黙によって定まる」のならば、私たち一人ひとりが「語られることのない利他」を見つけて自覚する感性を磨いてこそ「利他の環が結ばれて閉じる」のではないでしょうか。

誰も負い目を感じることのない「贈り・贈られる」という利他の循環を未来に向かって繰り返していけたら。

そんなことを思ったのでした。

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