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矛盾が矛盾のままで表現できているほうが、よほど現実的

今日は書籍「利他とは何か」第三章「美と奉仕と利他」より「論理の道の先に真理はない」を読みました。一部を引用してみます。

利他とは何かを考えようとするとき、最初にある落とし穴はそれを概念化することです。利他という名状しがたい、そしてある意味では姿なき出来事を生々しく感じることなく、概念化するとき、私たちがそこで目にするのは、記号化された利他、さらにいえば死物となった利他であって、「生ける利他」ではありません。
現代では、論理上の矛盾がないことが正しさの証しであるかのようになっていますが、現実世界の説明としては非常に脆弱です。現実は矛盾に満ちています。むしろ、矛盾が矛盾のままで表現できているほうが、よほど現実的です。いうまでもなく論理は必要です。しかし、現実はしばしば論理を超えます。利他は、論理の世界で考えるよりも現実世界で経験した方がより確かです。
計算された利他は、本質的な意味では利他たり得ないことはすでに見ました。論理に頼る者は、数字や文字によってすべてを語ろうとする。しかし、そこにはすぐに限界がきます。論理とは違った「理」が必要なのです。(中略)利他とは何かを考えるとき、少なくとも論理、倫理、哲理、そして摂理という四つの理を多層的に見極めていく必要がありそうです。

「抽象化(概念化・記号化)した利他は死せる利他であって、生ける利他は現実世界で経験するほうが確かである」

著者の言葉に「たしかにそうだよな...」と思わずうなずいてしまいました。

これまで利他に関して色々と自分なりに思い巡らせてきましたが、いずれも自分の経験を掘り起こしながら「利他とは何だろう?」という問いを自分事にしてきたからです。これまでを振り返りながら、学びを整理してみます。

まず、あわい(間)に生じる利他という出来事(現象)は「真理ではなく、人それぞれの真実である」という言葉を思い返しました。

元をたどれば、「利他を厳密に定義する必要があるのだろうか?」というところから私の思索は始まりました。個人の具体的な経験(真実)を参照しないまま、利他という概念について「こうあるべき」と考える・論じることに疑問を感じていたのです。

「利他をさまたげるものは作意」という言葉もあるように、利他を普遍的な真理として捉えて追求すると「真理に当てはまらないものは利他ではない」という押し付けがましさというか、窮屈さが生まれる気がしたからです。

利他という現象は相手との間に「余白」があるから生まれる。言い換えると受けとる側に「見い出す自由・解釈の自由」があるから生まれる。私個人が出会った・感じた具体的な「利他」を参照する過程は、「見い出す自由」に支えられたからこそ、とても充実したものであったと感じています。

今回、著者は「論理・倫理・哲理・摂理」の四つに言及しています。

倫理の「倫」は「つながり」を、「哲理」とは「人生や世界の本質にわたる深い道理」を、そして「摂理」は「言葉で表現しがたい(名状しがたい)ちからが、ある出来事をもたらす」様を意味します。

論理の必要性を認めつつも、現実世界に存在する「矛盾」が「論理の限界」を示すのだから、白黒をはっきりする「論」以外の理(ことわり)との調和が大事だという著者の主張は、決してコントロールすることのできない利他という現象が生じる可能性を高める上で重要なメッセージだと思います。

「矛盾が矛盾のままで表現できているほうが、よほど現実的」

矛盾、あいまい。現実世界のグラデーションの中にある利他。

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