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記憶の居場所〜記録と記憶。自らと自ずから〜

満開の桜に、春の到来を予感する一日。

昨日はお花見パーティーということで、お世話になった恩師のご自宅にお招き頂きました。近況や現在関心ある事など話したり、色々な方々とのご縁に感謝したりと、とても充実したひと時でした。

ご自宅に足を運ぶのは、今回で2回目。前回は新型コロナウイルスの流行前でしたから、じつに数年ぶりです。最寄駅から徒歩10分ほどの距離ですが、地図アプリは使わず、昔の記憶を辿りながら迷うことなく辿り着きました。

思い返していると、ふと「記憶は頭、脳の中にあるのだろうか?」という問いが浮かんできました。頭の中で過去にたどった道程、目にした風景がイメージとして立ち上がってきつつも、どちらかと言えば「歩く」という経験を通して「身体全体に蓄積された記憶」のほうが確からしく思えるわけです。

そして、もう少し考えてみたいのは「記録と記憶は何が違うのだろうか?」ということ。記録は「静的な」情報である一方、記憶にはどこか「ゆらぎ」や「余白」があり、うつろいゆく「動的な」感じがします。

記憶が固定的ではないからこそ、昔に歩いたであろう道を懐かしみながら、「そうそう、こんな道だったな。ここを曲がるとたしか…」というように、出会い直してゆく喜びや懐かしさがある。

と、こうして言葉を綴っていると、なぜだか「赤錆びた鉄」のイメージが頭に浮かんできたのですが、「鉄の錆」にも記録ではなく「記憶」の存在を感じます。

記憶を「状態の変化」として捉えると、記憶が保持されるためには物質的な「可塑性」あるいは「変更可能性」が必要であり、内的・外的を問わずして物質的に不変であるとしたら「記憶」という概念は存在しないようにも思えます。柔らかすぎると上書き保存され、硬すぎると保存されない。瑞々しい記憶の源泉は、適度な可塑性、「しなやかさ」にあるのかもしれません。

鉄の記憶。物の記憶。記憶は人の頭の中にあり、記憶は人に固有であるということは決してなく、万物に記憶が宿っているような気がしてきます。鉄が錆びる、物が朽ちて風化してゆくその姿に、経過した時間の蓄積がにじみ出ているわけです。

そう思うと、記録は「自ら(みずから)残す」ものであるのに対して、記憶は「自ずから(おのずから)残る」ものという対比ができるのではないでしょうか。

身体を通して世界と出会いなおしてゆくことの喜びを再発見したのでした。

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