「語らずに語る」ということ

今日は書籍「利他とは何か」第三章「美と奉仕と利他」より「余白のちから」を読みました。一部を引用してみます。

柳は工人たちのように器のような「物」を作ることはありませんでしたが、書をよくしました。書は、書かれた文字だけでなく、そこに余白を生みます。見る者がその余白を認識することがなければ、そこに書かれている文字も理解できない。文字という語りと余白という沈黙の場を同時に現成させているのが、書です。
同様のことは話すときにも起こっています。人は誰もが言葉によってだけでなく、沈黙を背負ってしゃべっている。あるいは、聞き手が黙っていてくれるから、話をすることができる。ここにある理法があるのは明らかです。
哲学者の井筒俊彦は、文字や声になる言葉とは異なる意味の顕れを「コトバ」という表現で語りました。私たちはさまざまな非言語的現象からも意味を感じています。だからこそ、音楽や絵画といった芸術にも心を動かされるのです。こうしたとき、私たちは、言葉だけでなく、沈黙のコトバを深く経験している。

前回は「利他は行為に始まり、沈黙によって定まる」という言葉について思い巡らせてみたわけですが、今回の主題は「余白」という言葉です。

「余白」にはどこか「沈黙」に近しいものを感じます。いずれもカッコ()の中をどのように埋めるのか、その自由を感じます。

民藝運動を立ち上げた柳宗悦さんは「書」に取り組まれていたとのことですが、ここで現れるのは「行間」という形での「余白」です。

私はまず本を読むとき「著者の主張は何か?」「何が書かれているのか?」よりも「何が問われているのか?」「著者の問題意識は何か?」に意識を向けています。もちろん、エッセイなど、そのような読み方がなじまない場合もあるのですが、その「問い」を器として、そこへ著者の言葉を納めていくように読んでいます。

著者は持論を展開するわけですが、読み進めていくと「ここはもっと厚みを持たせたかったのだろうな」と感じたり、「なぜこう考えたのだろう?」と疑問に思うこともあります。まるで、紙面の向こう側の著者と対話しているようなテンポ、流れが生まれる感覚です。その感覚の大元をたどっていくと「語られていない何か」つまり「行間」や「余白」に行き着きます。

もし行間を全て埋めるように書き尽くされていたとしたら、どうでしょう。疑問に思ったり、解釈を広げる余地がなくなるというか、窮屈に感じるような気がします。

会話においても「余白」や「間」は大切な役割を担っています。

相手の話にじっくりと耳を傾けるとき、自分は何かを語っていなくても、あいづち、表情、声のトーンなどで、自分の気持ちや態度を伝えています。

「語らずに語る」

一見すると矛盾するようですが、実際のところ私たちは無意識のうちに実践しているのです。

このように考えてみると「〇〇せずに〇〇する」という枠組みの可能性を拡げたくなってきました。

たとえば「飾らずに飾る」はどうでしょうか?

いつ会っても素直というか、素朴というか、自然体というか。飾らない人っていますよね。飾らないその振る舞いが「その人らしさ」としてにじみ出てくるわけです。

「〇〇せずに〇〇する」は「削ぎ落としていくこと」なのかもしれません。結果として「シンプル・簡素」になるのではないでしょうか。

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