「自分の生活の中心」は何だろう?

今日は『日本のデザイン』(著:原研哉)から「家をつくる知恵」を読みました。

昨日読んだ内容を少し振り返ると「暮らしと美意識」というテーマに触れました。暮らしの起点となる「住まい」について、日本はもっと高度な美意識を発揮してもよいはずだ、と著者は考えているのでした。

集合住宅、マンション。高度経済成長を経て物質的充足が急速に満たされた流れを受けて、規格化された住居の中で多くのモノに囲まれた暮らしが身近になってきてました。

一方、日本に繊細、丁寧、緻密、簡潔といった通底する美意識があります。「断捨離」や「ミニマリズム」という言葉は、そのような美意識の表れとも取れるかもしれません。モノを少なくして簡素にする。そこに生まれた余白の豊かさを享受する。

「こういう暮らしがいい」という想いは、感性を起点にしているとすれば、そのあり方は多様であっていいはずです。多様といっても乱雑ではなくて、それらを束ねる方向性・枠があるのではないか。そして、それは文化の中に埋め込まれた美意識なのではないか。そのようなことを思ったのでした。

さて、今回読んだ範囲では「家の中心・生活の中心」というテーマが展開されていました。

自分に「しっくりくる住まい」とは?

いま住んでいる家が「自分にしっくりくる」と感じるでしょうか。それとも「なんだかしっくりこない」と感じるでしょうか。自分に合った家のあり方とは一体どのようなものでしょうか。

 さて、それではどうやって自分の生き方にぴったり合った「住まいのかたち」を獲得すればいいのだろうか。不動産会社のチラシによって喚び起こされた欲望ではなく、おお、これぞ我が暮らしと、手応え十分に覚醒できるような家をどうやって探し当てたらいいのだろうか。それはさして難しいことではない。目をつぶって「へそ」を指せばいい。自分にとって一番大事な暮らしのへそを、家の真ん中に据えればいいのだ。

著者は「不動産会社のチラシによって喚び起こされた欲望ではない」と言うわけです。家を探すときの基準って何でしょう。家賃、間取り、設備、最寄駅からの距離、築年数などなど。

機能やデザインなどに意識を向けて吟味するのは大切だと思います。一方、いざ住んでみると「なんだかしっくりこない」と感じることもあるかもしれない。その「しっくりこない」感覚はどこから来るのでしょうか。

そのヒントが「へそ」という言葉にあるのでしょう。「自分にとって一番大事な暮らしのへそ」とは一体何でしょうか。その「へそ」を指して家を選ぶということ。

「自分の生活の中心」は何だろう?

「暮らしのへそ」って言われても何だかピンとこない。そんなこともあろうか、著者は様々な例を紹介しています。

 たとえば、風呂が好きなら、2DKの風呂のように控えめな位置ではなく、一番日当たりのいい場所に、立派な風呂場を設ければいい。さらに言えば、家全体が風呂のような空間をしつらえてもいい。じめじめとした暗い空間ではなく、明るく爽快で、開放的なスパのような居住空間である。トイレや風呂を居間と同様に清潔で気持ちいい場にできるのは、靴を脱いで家に入る暮らしならではのことであり、先端のトイレや風呂は事実としてそういう方向に進化しつつある。

「風呂」や「トイレ」を中心にした居住空間。それはつまり、生活の軸となる「時間」や「行い」を定めるということ。家で過ごす時間をどのような物にしたいだろうか。そのような問いをもって家を探し、整えていく。

 ピアノを弾きたい人なら、グランドピアノを部屋のど真ん中に据えて、防音壁や遮音床を張り巡らせて、大きな音量で思う存分、ピアノを弾き暮らせる空間を手に入れればいい。ジムのようなエクササイズのできる広い床を備えてみるのも便利かもしれない。時間の制約を受けずに、マイペースでトレーニングができる。

音楽や運動を中心とした生活。「家の中で思う存分に時間を使えるとしたら何に時間を使いたいだろうか」という問いがある。それは自分の生活の中心を探す問い。「へそ」とは「自分の生活の中心」のこと。

生活の中心が定まっていると、家を探すときに自分が生活している様子がありありと思い描かれるのかもしれません。

「自分の生活の中心は何だろう?」という問い。

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