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「触れる」感覚が他の感覚を支えている

今日は『触楽入門 -はじめて世界に触れるときのように-』(著:テクタイル)から「赤ちゃんの五感のなかで、最初に使われるのはどの感覚だろう?」を読みました。

昨日は「もし触感がなくなったらどうなるだろう?」という問いを考えたのでした。

何かに触れているとき、触れている対象の存在を感じている。そして、触れられている感覚を通して自分の存在を感じている。もしも触感がなくなってしまったとしたら、自分も含めたありとあらゆる存在との「つながり」が失われて、浮遊しているような状態になってしまうのではないか。

そのようなことを思ったのでした。

今回は「触覚があらゆる生物にとって生存に不可欠」であること、触覚から始まる世界とのつながりが、他の感覚(特に視覚)による情報で置き換えられてゆき、やがて触れていることが意識的体験ではなくなっていくことが語られています。

触覚はあらゆる生物にそなわる根源的な感覚

著者は、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの言葉を引用し、次のように述べています。

 記録されているかぎり最初に触覚に言及したのは哲学者のアリストテレスですが、彼は五感の中でも触覚に特別な地位を与え、触覚は「感覚のうちの第一のものとしてすべての動物にそなわる」と述べています。栄養摂取という生存行動のためには、触覚が不可欠だというのです。アリストテレスの言う通り、赤ん坊は指を、唇を、舌を駆使してお母さんのお乳を探し、栄養を摂ります。「触れる」ことによって、私たちは自分自身と世界との関係を学習し、生き延びてきました。

「触覚は感覚のうちの第一のものとしてすべての動物にそなわる」

アリストテレスがどのような経緯で、思考過程を経てこのような結論にたどり着いたのか気になるところですが、たしかに触覚が存在しない動物は存在しないのではないかと思えます。(植物に言及していないこともポイントかもしれません)

光合成によって自ら栄養を作り出す植物とは異なり、動物は生命維持のためにたえず他の生物から栄養を摂取する必要があります。もし触覚がなかったとしたら、他の生物の存在を知覚することができず、栄養も摂取できない。

もし触覚をもたない生物が存在していたとしたら「そのような種は必然的に滅びに向かってしまうのはないか」と思えます。逆に言えば「触覚を取り戻すことは生命維持・生命活動に不可欠」であると言えるかもしれません。

生後間もない赤ん坊は視力がほとんどなく触覚で世界をとらえている。この例は、触覚が原初の根源的な感覚であることを印象づけます。

後天的に目が見えるようになったとしたら?

著者は、次に「モリヌークス問題」という問題を取り上げています。生まれつき眼の見えない人が後天的に眼が見えるようになったとき、はたして世界を知覚することができるのか、という問題です。

 17世紀に哲学的な論争を呼んだ問題で、「モリヌークス問題」というものがあります。ごく単純化して言えば、生まれつき眼の見えない人がいて、もしも成人してから手術で眼が見えるようになったとしたら、(それまで触ることによってわかっていたものを)眼で見ただけで認識できるだろうか、という問題です。この問いには、実際に開眼手術を行うことが技術的に可能になったことによって、答えが出ました。答えは「認識できない」です。突然眼が見えるようになっても、ただ光にあふれた光景が広がるだけで、モノの形や距離感を捉えることはできません。(中略)これは、触ったものと見たものの情報が統合されていないからです。

「触ったものと見たものの情報が統合されていない」

後天的に目が見えるようになったからといって世界を知覚することができるわけではない、というのは驚きでした。見えたものが触れたときの感覚と結びついていなければ、その対象を認識することができない。

逆に言えば、触覚と視覚が結びついているとき、眼で見るだけでそのものを捉えることができるということは、私が視覚で何かをとらえているとき、「直接は触れていなくても、あたかも触れているような感覚」が自分の内側に起きているのかもしれません。

あらゆるものがデジタル化され、視覚情報として瞬く間に共有される現代。そこではコミュニケーションにおける「心身分離」という問題が生じているのでした。オンラインのコミュニケーションは、現状は触覚を伴わないので他者の存在感をリアリティとして感じ取ることが難しい。

コロナウイルス流行によって接触を避ける風潮になっていますが、それは「触れる機会が失われる」という問題につながっているのかもしれません。

触れることで世界をリアリティとして捉える。それは生の実感につながっているのではないでしょうか。

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